2011年2月3日木曜日

図録▽東京・大阪・京都花街の芸妓(芸者・芸子)(昭和初期)

 関東の「芸者」(げいしゃ)、あるいは関西や長崎の「芸子」(げいこ)は、あらたまった呼称、あるいは公式用語としては「芸妓」(げいぎ)と呼ばれる。芸者・芸子は、江戸時代から明治・大正期にかけて全盛期を誇った宴会専門職の女性であり、万葉集の時代の「遊行女婦」以来、時代により「遊女」「傀儡女」「白拍子」「遊君」「踊り子」「芸者」「女給」「ホステス」などと場所と名を変えながら続いてきている遊女の流れを汲んでいる。

 芸者・芸子という語は死語となりつつあるが、日本古来の遊女の伝統がなくなってしまうわけではなかろう。なお、遊女(ゆうじょ)は「あそびめ」とも称されるが、もともとは、「遊ばせてくれる女」というより、「遊んでいる女」という意味である点に注意が必要である。遊女の歌を国歌にしている国は日本だけであろう(巻末コラム「遊女が謡った「君が代」」参照)。

 遊女には「芸のある遊女」と「芸のない遊女」とがあり、後者は娼婦と位置づけられる。我が国では、前者の流れが主流である点に特徴があると考えられる。

 芸者は「芸をもつ遊女」というメインの流れに属しているが、江戸時代以降、幕府の位置づけにより、遊女が、女郎・花魁と芸者・芸子に役職分離したため、娼婦的な役回りはタテマエとしてもたないものとされるに至った。それでも芸者が遊女と見なされてきたのは、遊興に不可欠の歌舞音曲の芸で身を立てているのみならず、「旦那」と呼ばれる準夫婦関係を結んだ者から金銭的支援を受けることが多いためであった。沢尻エリカに代表される現代の女性タレントの場合は、「旦那」が「準」夫でなく「一時的」夫に変化していると考えれば、やはり、遊女の流れに属しているととらえられる。何かと騒がれることの多い女子アナも見方によっては芸妓的伝統の流れの上にある(図録5660)。

 ここでは、昭和初期に、東京の芸者、あるいは関西の芸子が各花街(かがい)に何人ぐらいいたかの数字をグラフ化した(奈良時代〜鎌倉時代の遊女中心地については図録7240参照)。なお、一人前になる前の若い芸妓を半玉、おしゃく、舞妓などと称する。

 花街は、宴席専門の芸妓のみの場合もあれば枕席(ちんせき)専門の娼妓のみの場合もあれば、両者が混合している場合もある。二流以下の花街では、芸妓のみの花街であっても宴席を盛り上げるるとともに接待の延長で枕席に侍る芸妓(この合意を得ることを「転ばす」といった)、あるいは枕席専門の芸妓(不見転「みずてん」芸者)がいない訳ではなかった。

 芸妓と娼妓は免許のことなる別々の存在であったが、東京では、基本的に芸妓のみの花街と娼妓中心の花街とに明確に分かれており、関西の場合には、芸娼妓混合・両本位の花街が多かった。花街は江戸時代の岡場所(吉原や島原といった公認遊郭以外の色里)に起源を有する場合が多いが、江戸時代に、将軍のお膝元である江戸においては、岡場所における娼妓行為の禁止を原則崩さず、検挙された娼妓は足を洗わない限り吉原遊郭に送られるという形を取り続けたのに対して、京都においては、江戸と同様に取締りを行ったが徹底できず、本来の許可地である島原遊郭の出張所として祇園などの岡場所が位置づけられ営業継続が半公認されるという形をとった。こうした歴史の違いが芸娼妓配置に関する明治以降の東京と関西の花街のあり方の差の原因となったと考えられる。

 東京の花街は三業地の指定により営業していた。ここで三業とは芸者置屋、料理屋、待合のことであり、三業組合の事務所として見番(検番)がある。待合は貸席業であり料理は仕出しによる(花街によっては宿泊も可)。所属三業地以外での芸者の活動は「遠出」と称して別料金となる。なお、戦後は、料理屋と待合はともに料亭と名乗るようになった。

 大阪と京都では芸妓が料理屋へ入らない。また大阪では、芸妓は検番ではなく花街ごとに「店」という芸妓扱席に所属。関西の娼妓は、遊郭の居付き女郎でない限り、各自が家(家形)を有し貸席に招かれて営業し、東京などの娼妓のように妓楼居住の籠の鳥式束縛を受けない、など関西と東京では花街の仕組みが異なった。

 関東大震災後の芸妓数は、東京府で約1万人、愛知県、大阪府がそれぞれ約5千人といわれるが、図で取り上げた東京の芸妓数は合計8,300人であり、ほぼ全体をカバーしているといえる。

 東京では、「柳橋」と「新橋」を柳新橋と称して2大花街とする場合がある。

 「柳橋」は、吉原、深川などへの舟運(猪牙舟「ちょきぶね」)の出発地に位置し、天保の改革の取締りで流れてきた辰巳芸者などを加え、浅酌低唱の客を集めて大繁盛し、明治時代のはじまりの段階で、江戸の伝統をひきつぐ町芸者の開祖となった花街である。古来遊女は川遊びとの親和性が高いが、柳橋では大正の初めごろまで、駆け出しの芸者のことを「あの妓(こ)はまだ船もうまく乗れない奴だ」といったそうである(滝川1958)。

 「新橋」は維新の志士との付き合いが深く、明治の交通新拠点に開かれた新興の花街であり、明治に入って柳橋を凌駕する威勢をしめした。戦後も外務省が海外の賓客を迎えた。芸者の本場とされる柳橋の芸者が基本的に江戸っ子のベランメイ女であり、明治の官員となった田舎武士とそりが合わなかったのに対して、新興の新橋芸者は現金主義で人みしりをしないところが新時代にふさわしく、繁昌の中心が柳橋から新橋にシフトしたのも同じ理由とされる(三田村1926)。

 柳新橋に軍人や政治家を客に迎えて繁昌した「赤坂」(別名「溜池」、「山王下」)を加え、この3者が三和会という親睦会を組織し、芸で身を立てる宴会専門の花柳界として他とは異なることを暗に主張していたことから3大花街とする場合もある。

 人数的に最も芸妓数が多かったのは、この3花街ではなく、浅草寺の門前町で有名な料理屋が多かった「浅草」であり、大衆的な土地柄で上京客の遊び場所として栄えたという(新橋は駅の反対側の新橋烏森とあわせると最多であるが両者は別の花街)。

 次ぎに人数の多いのは東京で最も古い江戸初期以来の歴史を持つ「芳町(よしちょう)」である。分散していた遊里を湿地帯の埋め立て地である吉原(葭原)に1618年に集めたことにはじまり、陰間茶屋(歌舞伎俳優が舞台の合間に色を売った店)があった。明暦の大火で新吉原に移転した後、踊り子が芸者に転じ、明治以降、下町の商工業者をお客に繁昌した。
 
 江戸時代の公認の遊郭として一大中心地だった「吉原(新吉原)」は昭和初期にも洲崎と並ぶ大娼妓地区であった。吉原芸者は、新たな中心地として人口が急増していた江戸に流れ着いた遊女の末流が江戸版白拍子として踊り子を業とするようになり、さらにその後歌舞伎、浄瑠璃にならって三味線を弾き唱いするようになり、最後には、幕府の不許可売春取締りによって吉原に送り込まれ、幇間とともに吉原遊女の引き立て役となるに及んで誕生したとされる。こうした見方により吉原芸者がそれ以後の芸者の本家本元とされる。吉原以外の遊里は非公認ということで岡場所と呼ばれたが、岡場所の芸者は町芸者と呼ばれ吉原芸者と比べ一段低い位置づけとなっていた。19世紀安政年間には300人を越えるまで増加した吉原芸者であるが、昭和初期までに他所への転出も多く、人数的には少なくなっていた。幇間がなお多いのも吉原の特長であった。

 最後の吉原芸者といわれるみな子(2009)が戦前の吉原芸者の気風を伝えている。吉原芸者に敬意を表して吉原芸者が使う白い半襟を余所の花柳界では使わず必ず薄くても色付きの襟をつけていた。また吉原芸者はお披露目(デビュー)について余所のように旦那の水揚げや資金援助の習慣が無く自前で調達するなど芸一本で身を立てる気風があった(花魁の職域を極力おかさないということだと考えられる)。気位が高い分吉原芸者は貧乏。などといったことが語られている。

 「深川」は、江戸時代、公許であることにあぐらをかいて衰微した吉原に代わって繁昌した岡場所であり、本来男にしか許されない羽織を着てお侠(おきゃん)で鳴らした辰巳芸者(羽織芸者)が、男嫌いのふりをしてそれでも最後には身を任せる手管で評判をとった。吉原とは逆に女郎(娼妓)は芸者の風下に立つことになり、これが、柳橋、そして明治以降の花柳界の基本スタンスとなった。天保の改革の取締りで衰え、明治はじめに娼妓が洲崎に移されたのち、昭和初期には三流どころの花街となっていたが、面長で義理堅く人情に脆い深川芸者は羽織芸者の流れを汲んでいたといわれる。

 「日本橋」は、新吉原への移転の際に元吉原の一部が移り、また深川の瓦解(天保の改革)で柳橋とともに一半が流れ込んで来たという歴史をもつ古い花街であり、下町風の昔の町芸者気風(かたぎ)の残り、官吏・政治家には向かない場所といわれる。

 「神楽坂」は毘沙門天の門前町で、尾崎紅葉の硯友社など文士の利用、低廉な価格で人気があった花柳界だったが、昭和に入って妓品の向上を目指し、とかく乱脈な営業の目立った他の山の手の土地とは異なるという気概を見せたといわれる。

 不忍池の眺めが特徴の「下谷」は地元商家の旦那・番頭、本郷界隈の学生客の客が多かった。

 「尾久」「五反田」は鉱泉を掘り当てた新開地であり、はじめは旅館の女中に怪しい振る舞いをさせていたのが許可地となり芸者街に転じたもの。

 「芝浦」は明治末期以降に埋立がはじまるまでは都心から近い眺望の良い粋な海岸リゾート地域として、また落語で有名な芝浜にあがる鮮魚などの料理屋街として栄えたため花柳界ができた。旅館・待合が文士のサークル室のように利用されていた(小山内薫・谷崎潤一郎など2次新思潮グループや青山二郎・小林秀雄・中原中也グループ)。巻末表の通り、料理屋が多い点が特徴である。

 なお、明治時代の東京の各花街の芸者の写真が、「明治大正1868-1926」というサイトの「東京百美人」のコーナーに多く掲載されているので、気になる方は参照して欲しい。

 大阪、京都については、江戸時代の吉原にあたる公許の遊郭であった場所は、大阪は新町、京都は島原であるが、ともに昭和初期には娼妓本位の花街であった。

 大阪は、奈良時代の港町難波津以来の長い花街の歴史を有する。大阪の宗右衛門町に代表される「南地」は「島の内」とも呼ばれるが花街の代表格ということで東京の新橋に当たる。また、北の新地、北陽とも呼ばれる「曾根崎新地」は芸と粋(意気)に優れた柳橋ともいわれる。もっとも客層から言うと、南地が船場の旦那衆中心に対して、曾根崎新地は、官庁向きといった風らしい。

 平安時代以降江戸時代まで日本の首都であった京都も大阪に次ぐ花街の長い歴史を有する。京都については、江戸時代に公認遊郭であった島原が江戸の吉原に当たり、非公認であった祇園は江戸の深川・柳橋に当たる。

 「祇園」は祇園社(八坂神社の旧称)、円山、清水寺などへの道筋に当たる地域に近世初期から栄えた茶屋、水茶屋の茶汲女がおこりである。江戸時代に公許の島原に対抗して繁昌した岡場所であり、幕府による寛政二年(1790年)の不許可営業一斉取締りで1,147人の芸子・娼妓が召取られ、島原に送られたが、島原には受入能力がなく、結局、祇園新地の半公認という形となった。明治に入って、芸娼妓分離政策の下、東京では深川の娼妓が洲崎に移されたように、祇園町では、明治14(1881)年、芸妓の甲部遊郭と娼妓の乙部遊郭に分けられた。祇甲と祇乙のおこりである。映画監督溝口健二のリアリズム開眼作である「祇園の姉妹」(1936)の舞台にはあえて芸娼妓が混合する祇乙が選ばれ、内容を含め花街関係者の不評を招いたとされる。今では当たり前となっているが、はじめて現実の人間像を描いたことでその後の日本映画に大きな影響を与えたといわれるこの映画が花柳界を題材としている点が興味深い。祇乙は現在「祇園東」となっている。

 「先斗町」は江戸時代三条の橋のたもとに出来た祇園より新しい細長い花街であり、一見(いちげん)の旅の者では楽しくもない祇園と異なり、初会から親しみやすく遊べる所だったという。

 「宮川町」は宮川河原での二代目阿国の歌舞伎興業、その後の若衆歌舞伎の小屋と陰間茶屋から発展した花街といわれる。「音羽屋」「成駒屋」といった歌舞伎役者の屋号は当時若衆が出入りした宮川町の宿屋の屋号に由来する。


東京・大阪・京都花街の芸妓(芸者・芸子)(昭和初期)

【東京の花街】

  花街名 芸妓数 料理屋
・待合
うち
料理屋
うち
待合
備考
千代田区 講武所 140 31 10 21 幇間1人
九段 300 124 4 120  
中央区 新富町 180 66 6 60  
霊岸島 50 32 12 20  
日本橋 250 60 9 51  
芳町 700 300     料理屋・待合は浜町(柳橋との共同
出先)、及び蛎殻町の組合分を含む
新橋 650 169 9 160  
港区 烏森 250 99 9 90 幇間6人
赤坂 400 100 10 90 別名、溜池、ないし山王下
麻布 100 53 12 41  
芝浦 150 121 48 73 (昭和5年東都芸妓年鑑による)
新宿区 神楽坂 600 147 17 130  
四谷荒木町 240 73 13 60 別名、津の森
四谷大木戸 90 39 3 36  
新宿(娼妓地区) 20       娼妓500名
文京区 白山 270 97 17 80 幇間4人
湯島天神 80 39 14 25  
駒込神明町 150 80 20 60 幇間3名
台東区 柳橋 300 62      
浅草 800 287 37 250  
吉原(娼妓地区) 155       娼妓2469名、幇間27人
下谷 400 130 20 110 別名、池之端
亀戸 130 85 9 76  
墨田区 向島 250 120 20 100  
江東区 深川仲町 130 40 10 30  
洲崎(娼妓地区) 40       娼妓2000名
品川区 品川(娼妓地区) 50   15   娼妓300名
大井 250 69 39 30  
五反田 150 63 23 40  
大田区 大森海岸 130 36 17 19  
大森新地 150 44 3 41  
世田谷区 玉川 18 20 20    
渋谷区 渋谷(渋券) 300 180 20 160  
渋谷(道券) 56 17 9 8 道玄坂三業として分離
豊島区 大塚 260 83 22 61  
北区 王子 35 7 1 6  
荒川区 尾久 114 48 20 28 幇間2名

【大阪・京都の花街】
  花街名 芸妓数 貸席 備考
大阪 南地五街(芸娼妓混合)  3000 500 芸妓は美妓(娼妓を含む)。五街とは宗右衛門町、櫓町、坂町、難波新地、九郎右衛門町
曾根崎新地 900 118  
堀江(芸娼妓混合) 800 180 娼妓50名
松島遊郭(芸娼妓混合) 100 250 娼妓3500名
飛田遊郭(芸娼妓混合) 15 180 娼妓2300名
住吉(芸娼妓混合) 400 200
(料理茶屋)
貸席(茶屋)だけでなく料理屋からでも自由に芸妓が呼べる点が旧市内と異なる
京都 祇園新地甲部 750 340 芸妓のうち40人が舞妓。芸妓本位の祇園新地甲部に対して、芸娼両本位の乙部(祇乙)は大衆路線遊び場
祇園新地乙部*(芸娼両本位) 91   (大正2年)娼妓244名
先斗町 250 163 芸妓のうち20人は舞妓、20人は義太夫
宮川町(芸娼両本位) 400 300 娼妓400名
七条新地*(娼妓本位) 24   (大正2年)娼妓1101名
島原*(娼妓本位) 43   (大正2年)娼妓288名
上七軒* 64   (大正2年)
五番町*(娼妓本位) 49   (大正2年)娼妓469名
中書島(芸娼両本位) 90   娼妓360名
(資料)松川二郎(1932)、港区教育委員会(1966)、加藤政洋(2009)(*印の花街のみ)

【コラム】遊女が謡った「君が代」

 今様には「君が代」の歌が多い。国歌「君が代」は梁塵秘抄にはなく世阿弥の「養老」に出てくるものである。

 君が代は千代も住みなん稲荷山 祈る験(しるし)のあらんかぎりは
 君が代は限りもあらじ三笠山 峯に朝日のささんかぎりは
 君が代は松吹く風の音高く 難波のことも住吉の松

 「なぜこのように「君が代」が多いのかといえば、今様は傀儡女をはじめとして、白拍子女、遊女などの芸能者がお客の前で謡うものであるから、まず最初にお客、すなわち君の「君が世」の長久を言祝ぐのである。」(脇田2001)これが中世ではあらゆる主従関係に敷衍されて、ついに明治国家において天皇を指して「君」とされるに至り、国歌となった。遊女の歌を国歌にした国は少なかろうと思われる。反幕という共通点から芸者・芸子と馴染んだ維新の志士が多かった(初代総理大臣の伊藤博文は妻にした)。政権を握った元革命家の心情として天皇への崇敬と遊女への親近感はひとつのものだったのだと私は勝手に考えている。


(参考文献)

・相原恭子(2001)「京都 舞妓と芸妓の奥座敷 」文春新書
・岩下尚史(2006)「芸者論—神々に扮することを忘れた日本人 」雄山閣
・加藤政洋(2009)「京の花街ものがたり 」角川選書
・松川二郎(1929)「全国花街めぐり」誠文堂
・松川二郎(1932)「三都花街めぐり」誠文堂(三谷憲正編「コレクション・モダン都市文化 (22) 花街と芸妓」ゆまに書房、2006年)
・滝川政次郎(1965)「遊女の歴史 」至文堂
・滝川政次郎(1958)「池塘春草 」青蛙房
・三田村鳶魚(1926)「江戸芸者の研究」(同「花柳風俗 」中公文庫(1998年))
・成島柳北(1859)「柳橋新誌」(「新 日本古典文学大系100 」岩波書店)
・みな子(2009)「華より花 」主婦と生活社
・港区教育委員会(1966)「港区の文化財〈第2集〉海岸の歴史と風俗
・脇田晴子(2001)「女性芸能の源流—傀儡子・曲舞・白拍子 」角川選書

(2011年2月3日収録)

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