2009年4月27日月曜日

村上龍 「限りなく透明に近いブルー」 ——— 第75回(昭和51年)芥川賞受賞作品 (後編) 石橋正雄の「生き方上手じゃないけれど」/ウェブリブログ


さて、ひとまず私はこの話を読み終わった。
 この話を読み終わった方は、どのような感想を抱いたことだろう?「訳が分かんない」そう思った方も少なからずいるはずだろう。
 それもそのはずで、この話は肝心なことを殆ど教えてくれない。即ち、事実の叙述が全くと言っていいほどなされていない。リュウが見聞きし感じ考えたこと、そして登場人物たちとの会話のみで作品が構成されている。リュウがどういういきさつで福生に住むようになったか、リュウとリリーとはどういう関係なのか、レイ子やモコやヨシヤマやカズオといった連中はいったいどういう人物なのか、さっぱり教えてくれない。そして、描写の大半も感覚的であり、しかもドラッグによる幻覚も作用しているため、描いている内容が具体性を伴わない。
 そのため読み手は、表面上描かれていない重要なことを、なんとなく推測しながら読んでいくしかないのである。

 物語のラスト近くになって、「グリーンアイズ」という男の名前が出てくる。「グリーンアイズって誰?」と思う人が大勢いるかもしれない。私も分からなくなったので、その箇所以前のページをパラパラとめくってみた。すると、前半部分(講談社文庫で言えばP60の部分)にグリーンアイズのことについて書かれている下りがあるのを見つけ、話の筋を思い出した。ラスト近くで訳が分からなくなった方は、ここを読み返して頂きたい。
 しかし、読み返しても「鳥」が何のことだか分からない方がいるかもしれない。「鳥」はリュウが見た幻覚(リュウはグリーンアイズの渡したカプセルを飲んでしまったのだろうか?)であることはお分かりになると思う。即ち、リュウは自分が巨大な鳥に飲み込まれてしまう幻覚を見ているのである。これは、自分が潰した蛾をリュウが口に含む(この彼の行動を真に理解できる人はいるのだろうか?)ように、リュウが巨大な鳥に飲み込まれるのではないか、と怯えているのだ。これに加えて、リュウが腐ったパイナップルを、鳥に与えるためにポプラの木の下に放り投げた話が絡んでくるのだ。

 さて、なぜリュウは「限りなく透明に近いブルー」になろうと思ったのだろうか。その部分を振り返ってみよう。

 ポケットから(中略)ガラスの破片を取り出し、血を拭った。小さな破片はなだらかな窪みをもって明るくなり始めた空を映している。(中略)
 影のように映っている町はその稜線で微妙な起伏を作っている。その起伏は雨の飛行場でリリーを殺しそうになった時、雷と共に一瞬目に焼きついたあの白っぽい起伏と同じものだ。波立ち霞んで見える地平線のような、女の白い腕のような優しい起伏。
 これまでずっと、いつだって、僕はこの白っぽい起伏に包まれていたのだ。
 血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。
 限りなく透明に近いブルーだ。僕は(中略)このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。(本文より)

 「えっ、雷と共に目に焼きついた白っぽい起伏?」そんなものあったっけ?と思う方が多いだろう。これはハイになったリュウとリリーが雷雨の中、車で飛び出した話の終盤のことだ(講談社文庫ではP84)。ここでは次のように書かれている。

 青白い閃光が一瞬全てを透明にした。リリーのからだも僕の腕も基地も山々も空も透けて見えた。そして僕はそれら透明になった彼方に一本の曲線が走っているのを見つけた。これまで見たこともない形のない曲線、白い起伏、優しいカーブを描いた白い起伏だった。
 リュウ、あなた自分が赤ん坊だってわかったでしょう?やっぱりあなた赤ん坊なのよ。(本文より)

 「赤ん坊?」ということでまた作品の前の方を見ることになる(講談社文庫ではP69)。リリーがリュウに言う台詞だ。

 あなたが何かを見よう見ようってしてるのよ、まるで記録しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さな子供みたいに。実際子供なんだわ、子供の時は何でも見ようってするでしょ?赤ちゃんは知らない人の目をじっと見て泣き出したり笑ったりするけど、今他人の目なんかじっと見たりしてごらんなさいよ、あっという間に気が狂うわ。(本文より)

 「何かを見よう見よう」というのは、作品中で度々描かれるリュウの性癖である。

「最近さあ、窓から一人で景色を見るんだよ。よく見るなあ。雨とか鳥とかね、ただ道路を歩く人間とかね。ずうっと見てても面白いんだ、物事を見ておくって言ったのは、こういう意味だよ、最近どういうわけか景色がすごく新鮮に見えるんだ」(本文より)

 ここまで読んでみると、このストーリーの全貌がやっと明らかになり始める。
 登場人物たちは、日常から逃避して刹那的な刺激に溺れようとしている。しかし、そうやってドラッグを服用しても快楽を得られるのはほんの一瞬であり、その後に待っているのは幻覚や嘔吐などの耐え難い苦痛である。その苦痛から逃れるべく、彼らは早く死にたいと思っている(それ故リリーはリュウに自分を殺せと言ったし、小説中の男がミサイルに爆発しろと言ったのだ)。
 彼らは愛というものを信じていない。お互いが真に心を通わせることで得られる安らぎを知らない。そういうものは嘘であり、浅ましいものだと考えている(手首を切ったヨシヤマをケイが白けた目で見ているのは、こういう理由だ)。彼らに欠けているものは愛である。愛を知らないが故に、自暴自棄となり、刹那的な刺激を求めようとするのだ。
 周囲の人物が次々に狂った様相を呈し始め、遂に自分までが狂ってしまったリュウ。その果てにリュウが気付いたことは、じっくりと周囲を見つめることであった。そうすることで、リュウは心の安らぎを感じたのではないだろうか。
 リュウはこの地上に優しさと美しさを見出し始めた。この地上は人間を優しく包むものではないだろうか?そういうことに、リュウは気付こうとしている。そういう目を持ちたい。黒い鳥に自分が飲み込まれるのではなく、自分を取り巻くあらゆるものを、ありのままに見つめたい。その美しさを感じ取りたい。そしてそれを他の人たちに伝えたならば、その人たちもきっと真の幸せを知るに違いない、本当の愛というものが分かるに違いない。周囲から逃避することは、黒い鳥に飲まれることと同じで、苦痛しか待っていない。自分の周囲をあるがままに見つめ、その美しさを見出し、そして受け入れようとするのだ。出来るだけ、あるがままに・・・。それが、「限りなく透明に近いブルー」という意味ではないだろうか。

 さてこの作品に対する私の評価であるが———
 事物を感覚的に表現する、という点ではこの作品は秀でていると思う。川端康成がたどり着けなかった境地にまで到っていると思う。描写は殆どがグロテスク、あるいはおぞましいものばかりであるが、「セックス&ドラッグス&ロックンロール」が「ラブ&ピース」などもたらしはせず、不快と悪夢しかもたらさない、ということを訴えたいのであるから、こうなってしまったことは仕方なかろう。もう少し筆を抑制しても良かったような気はするが、村上氏にしてみればこれでも筆を抑制した方かもしれない。そういう気遣いは伺える。
 ただこの作品に芥川賞が贈られたことは、決して手放しでは喜べないと思う。各学校の図書館に「芥川賞全集」が並び、その中にこの作品が入っているのかと思うと、堪らない気持ちになる。学校でこの小説を中高生が読むことに抵抗を感じてしまう。「表面的な描写ばかり見ないで、村上氏の本意を汲み取るように読んでおくれよ」と声を掛けたいところだが、彼らはそういう姿勢で読んでもらえるだろうか?「こんなにセックスが目一杯書かれていても、大人たちはこれを名作だと言ってるんだ。だから、僕たちも目一杯セックスしていいんだ」と勘違いしないだろうか?刹那的な刺激の誘惑に、青少年を引き込みはしないだろうか?村上氏が訴えたかったことと、逆の作用をもたらしはしないだろうか?
 この作品は、ある程度の良識と読解力がある人が読むのであれば、それなりの作品として楽しめるかもしれない。その点、この作品はまさに成人向け作品であり、不用意に未成年に読ませてはいけないように思う。

 読み終わった後に、「限りなく透明に近いブルー」の芥川賞選評をいくつか読んでみた。しかしその大半は、「感性がある」とか「資質がある」とか、表層的な意見ばかりであり、作品のテーマにまで踏み込んだ選評は全くと言っていいほどなかった(選考委員の先生方もお忙しいようで、数多くの新人の作品を真剣に読んでテーマ分析するほどの余裕も無いようだ)。また、当時この作品はマスコミでも盛んに取り上げられており、これに授賞しない訳には行かないといった状況だったようだ。

 昭和50年代。フィーリングを重視するポップカルチャー時代の始まり。シリアスなことにこだわらないことがカッコいいとされた時代。そんな時代が始まろうとする時、この作品に権威ある文学賞が贈られたことによって、そのような風潮を加速してしまったのだとすれば、この作品への芥川賞授与はそれなりに罪が重いような気がする
 だがそんな村上氏は、他の選考委員に強力にプッシュしてまで、金原ひとみの「蛇にピアス」に芥川賞を授賞してしまった———

お楽しみ頂けましたか?

Posted via web from realtime24's posterous

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