2010年5月6日木曜日

文化大革命 - L'eclat des jours (2008-10-09)

その時歴史が動いた「ひらがな革命」

正直最初は大して興味も持たずに見ていたのだが、大好きな曹丕の「文章は経世の大業にして……」が出てきたので、思わずまじめに見始めたところ、菅原道真が遊びもしなければ家庭も省みない勉強一代男として学の分野で君臨せんとするまさにそのとき、わずか16歳にして大貴族藤原の息子、藤原時平が出現する。この男、権門の子弟ということで日本版科挙も受けずに参内するという裏口っぷりを発揮する(が、政治は不可解なものだから、このシステムも実はここぞというときには機能することもあるのだな、と後でおれは気付く仕組みだ)。

発揮するのは良いのだが、当時、女がすなる和歌で恋歌ばかり詠むに長け、あっちに美女がいればあっちへ出向き、こっちに美女がいればこっちに出向き、歌を贈ってはねんごろになるという堕落者である。親父のコネで出仕したのは良いけれど、どう考えてもあそびをせんとや生まれけむな男である。

一方、道真は毎日漢文を読みあさり、勉強しまくり、家族を顧みず、という生活。それでも和歌に心を動かされることもあるが、ひらがなで書かれたものをいちいち漢字で書きなおすという硬骨ぶりを発揮する。真の漢は漢字を使い、ひらがななどでは文章をなさないのだ、という確固たる信念あり。

さて、官僚はときどき配置換えをすることで、見識をむりやり広めたり妙な縄張りを作れないようにしたりすることは、平安時代でも行われていたわけで、菅原道真も四国の長官に赴任することになる。

そこで驚いた。住民はみんなぼろを着て、字(道真にとっては漢字のこと)も読めずもちろん書けず、どこかへふらふらいなくなってしまう。

律令制度は土地を国家が持ち人頭税を徴収することを基礎としているから、食えなければ逃げるしかないからだ。

これはいかん、と菅原道真は考える。

農業を育成するには、土地に人を縛る必要があり、土地に縛られていれば逆に落ち着いて文化を甘受することもできる。つまり、律令制度には致命的な欠陥がある。つまり、人頭税だ。(戸籍制度が適当だから逃げられる時代はその致命的欠陥は国家にとっての問題ではあるが、戸籍制度ががっちり組まれるとその致命的欠陥は国民のものとなるのだろうな、と恐怖を覚えたりもするのであるが、それは余談と予断)

こういうときこそ、中国に聴け、と菅原道真は考える。拝外主義者である(ひらがなを絶対使わないわけだし)

かくして都へ戻って遣唐使を出そうといろいろ進めていくと、中国の情報が入ってくる。黄巣の乱というのがまきおこっていて中国の政治状況がおかしくなっているらしい。

うむ、律令制度の本家もだめなのか。

愕然とする道真。

しかし、学があるということは良いことだ。

自ら新たな政治の枠組みをついに考えだす。

それが、地代だ。すでに荘園の萌芽があるが(班田収受の法から時代もたっているわけだし)、それを利用し、土地に税金をかければ良いのではないか。

さっそく建白書を作り新たな税制を作り、人頭税を廃止し……

そこに貴族が猛然と抗議をするのは当然であるが、そうは言っても国家存亡の危機にまで実は国家財政が傾いているので、そのあたりはなあなあにできそうではある。

しかし、道真改革に対して、猛然と反旗を翻したのは他ならぬ部下の官僚たちであった。なんと、学問の王様の道真ともあろうお方が、われらが模範たる先進国、中国由来の律令制度を否定するとは、四国でおかしな食い物でも食ったのであろうか?

かくして日本で最初の公務員によるゼネストが敢行されてしまい政務がストップしてしまう。

予算審議の最中に政治の空白が生まれる状況の始まりである。

官僚がそっぽを向いてしまうとどうにもならないので、それまで女遊びが過ぎるとして軽く見られていた藤原時平(道真の右大臣と並んで左大臣になっていはいるが遊んでばかりいるので誰からも相手にされていなかった)にみんなの注目が集まる。国家存亡の危機なのはさすがに殿上人にもわかっている。下級役人にもわかっている。

さて時平も困った。

が、女心を自在に操るまでに至ったこの男、状況把握のセンスがある。

とりあえず、まとめると

・人頭税をやめて土地に税をかけるべき(学問の神様の結論なのだから正しいと考えるべきだ)

・先進国中国由来の律令制度を変えるということは、官僚たちの知的基盤、あるいはアイデンティティの破壊となるので、それは不可能だ(というか実際に政務が滞っている)

つまりジレンマですな。

しかし、と、時平は考える。これがジレンマになるのは、後者の代表が前者を持ちだすことの不整合に由来しているのではなかろうか?

そこでまずは道真に退場を願うことにして、うまいこと九州へ追い出した。ストを打っていた官僚たちも、土地に税をかけられることに戦いていた貴族たちも大喜び。

再び、しかし今度は時平を中心に政務が回り始める。

しかし、と、時平は頭を悩ます。へたすると結局道真と同じわだちを踏むことになるからだ。いずれにしても、道真改革は実行しなければならないわけで。いくら自分が大貴族の御曹司といったって、部下の官僚がストを打ったら手も足もでないのは、あの誰もが尊敬する道真が手も足も出なくなったことから明らかだ。

そこで、しょうがないので打開策を探るために勉強をしていてふと気付く。この漢字の塊のような文書群が、官僚たちを中国万歳、先進国の成果を後進国は受け入れていればよいのだ、という安易な考え方のもとになっているのではないか? っていうか自分の国のことは自分の頭で考えろよ常考。

そういえば、故郷のお寺の教えに、やまとことばはことだまでどうしたといかいうのがあったが、じっさいのところ、われわれがはなすことばとかくことば、これのかいりがかんりょうたちに、みょうなこていかんねんをうえつけていると、かていしよう。

そんな仮定ができるのは、この男が恋歌ばかりを作っていて、試験勉強のために漢文を詰め込まなかったからだろう。つまるところ、時平は他の官僚や大臣と異なり、漢字にも中国にもこれっぽちも未練はないし自身のアイデンティティもないのだ。

まずは、この国はこの国、やまとのくにだということを世に示すことから始めよう。そうすれば自ずと道は開けるに違いない。

そこで、天皇に歌はいいですよいいですよと吹き込み(おそらく財政問題のこともあり、醍醐天皇と時平は共同戦線を張っていたのは間違いないだろうと思う。道真追放にも醍醐天皇が積極的にかかわっていたようでもあるし)、歌集の作成の許可を取り付ける。次に、下級役人の中でも特にばかにされまくっている平仮名遣いを集めてきた。紀貫之たちだ。

まあ、というわけで、おれはひらがなで歌われる歌の良さを広く世に問うことにした。おまえらがんばれ。

なんと、自分たちの文学に初めてお墨付きを得られるとは! 紀貫之たちは感動してさっそく歌探しの旅に出る。足かけ3年かけて地方の旧家に残る文書やら木簡やらから歌をいっぱい集めてきた。

しかし、困りましたぞ、と貫之たち。

何が? と時平。

出てくる歌はみな、恋の歌ばかり。これではかっこがつきません。

うーん、と時平。恋の歌は良いものだが、確かにそれでは、説得力がないなぁ。やまとのくにはこいのくに、というわけにはいかんだろうし。

おおそうじゃ、と時平は面々を見て気づく。おまえらが作ればいいじゃん。

なんと、われらが作った歌をわれらが選んで載せて良いのですか?

だって、おまえらしかいないじゃん。

大感激した紀貫之たちは、歌詠みの本領発揮しまくる。ひらがなだからこそ可能な掛け言葉やらおのまとぺやらを駆使して、季節の歌やら風景の歌やらを作りまくる。

かくして、古今和歌集が完成した。

おお、これは読みやすい、と天皇も大感激。

さて、欽定の歌集とあれば、これこそ我が国の文化の道標、それまで漢文にあらずんば文にあらず、とひらがなをバカにしていた貴族も官僚もみな古今和歌集を読み、ひらがなに親しむ。いやぁ、恋とは良いものですな、いやいや季節のうつろうさまもまた良いものですよ、という調子だ。

いや、わたしは漢文以外は文とは認めませぬというのは、官場においては新しき文化の風潮に乗れぬ愚か者ということとなった。

さらにこの文化風は吹きまくり、寝殿造りのような建築分野、十二単のようなファッション分野にまでおよび、国風文化とまで呼ばれるまでに至った。

さて、諸君、我が国の財政は危機に瀕しているのはみなさん先刻御承知の通りだ。律令制度はしょせん外国の制度に過ぎぬ。我が国には我が国の美しい文化があり、それにみあった制度があるべきではなかろうか?

うむ、そうかも知れませぬの。

かくして、時平は無事、律令制度からのランディングに成功したのであった。

そのころ、九州の地で道真は辞世の歌を七言律詩で書いていた。

面白いねえ。文章も上手い!

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勝者と敗者の傾向分析について - amnesiac weekend programmer

勝利者: いつも答えを持っている人

敗北者: いつも悩んでいる人


勝利者: いつも計画をする人

敗北者: いつも言い訳をする人


勝利者:「私にさせて下さい」という人

敗北者:「私の仕事ではありません」と言う人


勝利者: あらゆる問題の中に答えを見い出す人

敗北者:あらゆる答えの中に問題を見い出す人


勝利者:どんなバンカーでもそばにグリーンがあると考える人

敗北者:グリーンの近くに必ずいやなバンカ一があると考える人


勝利者:「むずかしいけど何とかできるよ」と言う人

敗北者:「できないことはないけど大変だよ」と言う人


勝利者になろう

? ぶどうになるまで。 >(Lazy-Hazy-Programmer()) - 勝利者: いつも答えを持っている人 敗北者: いつも悩んでいる人 勝利者: いつも計画をする人...
はい、これを読んで違和感なく「あー、いいハナシだなぁ」と思ったあなた、あなたは歯医者です。以降長くなりますが解説します。

自分で問いを発するのが一番大切

  • 俗説、誤り
    • 勝利者: いつも答えを持っている人
    • 敗北者: いつも悩んでいる人
もうね逆。逆なんですよ。最初の哲学者と言われるタレスは「万物は水だ」などと言ったとして有名ですが、それは違います。彼が言ったのは「(それは)水だ」というだけであって、彼が最初の哲学者だと言われた所以は「万物は何でできているのか?」という問いを発したことにあります。つまり「なぜ?」「なんでそうなるの?」というWhyを問い続け、自分なりの回答を出すことこそが知性なのです。
  • 正解
    • 勝利者: いつも問いを持っている人、脊髄反射で「なぜ?」と思う人
    • 敗北者: いつも答えを持った気になって思考停止している人
勝利者は、いつも自分から仕事を生み出します。いつも自分で大きな発見をします。わずかな違和感であっても疑問を持ち、その疑問を解明します。 敗北者は、いつも他人から仕事を与えられます。いつも他人の発見を手伝うことになります。わずかな違和感であれば見逃し、大きな違和感を持てば不平・不満を漏らします。

まあこれはいいや。

  • 正解
    • 勝利者: いつも計画をする人
    • 敗北者: いつも言い訳をする人
注意しなければいけないのは、計画にこだわるあまり大切なことを見逃してしまったり、状況の変化への対応を誤ったりすることです。また、言い訳ではなく失敗の原因をきちんと分析する癖をつけて、次回の計画やその実施に反映しましょう。よく言うPDCAというやつですね。でもまあ常識なので、別にわざわざ書くほどのことでもない。

意味が分からない

  • 俗説、不正解
    • 勝利者:「私にさせて下さい」という人
    • 敗北者:「私の仕事ではありません」と言う人
こんなのは、資本側が雇用者をコキ使うための方便に過ぎません。彼らが求めるのは「何でもかんでもできてしまう人」であって、「何でもかんでもやりたがる人」ではありません。できもしないくせに何でもかんでも引き受けるのはやめましょう。それで沢山経験を積むことはできるでしょうが、闇雲に失敗のリスクを高めるのは愚かなことです(失敗を恐れて何もしないことはもっと愚かですが)。
  • 正解
    • 勝利者: できることとできないことの区別がついた上で、できるかどうか分からない新しいことに挑戦する人
    • 敗北者: できることとできないことに区別がつかない人

だから逆だっつーの

  • 俗説、不正解
    • 勝利者: あらゆる問題の中に答えを見い出す人
    • 敗北者:あらゆる答えの中に問題を見い出す人
これも先程述べた通りです。哲学や科学の世界では問題を見つける人、問いを発する人が偉いのですが、奴隷の世界では答えの中に問題を見出す人が偉いのです。
  • 正解
    • 勝利者: あらゆる答えの中に新しい問題を見い出す人
    • 敗北者: あらゆる問題の中に古い答えを見い出す人

これはちょっとややこしい

まあ別に間違ってはいないんですがね。大事なことが抜けているんですよ。
  • 俗説
    • 勝利者:どんなバンカーでもそばにグリーンがあると考える人
    • 敗北者:グリーンの近くに必ずいやなバンカ一があると考える人
大切なのはね、戦略を練るために、あらゆる前提条件を見直すことなんですよ。
  • 正解
    • 勝利者:そこがゴルフのコースかどうか確かめて、自分の持っているクラブを確認する人
    • 敗北者:森の中でバットを振ってゴルフしようとする人

これは…

ここの読者諸賢におかれましては、やはりIT関係の職に就かれている方が多いことと思います。自分の周囲にこんな人がいたら注意しましょう。「むずかしいけど何とかできるよ」といって仕事を引き受けてくる営業がいたら両耳を引きちぎって口を糸で縫ってやりましょう。
  • 俗説
    • 勝利者:「むずかしいけど何とかできるよ」と言う人
    • 敗北者:「できないことはないけど大変だよ」と言う人
まあこれはプログラマーに限ったことではないのですがね。代償を無視して結果を追い求めることよりも、代償を理解して結果を出すことの方が大切です。
  • 正解
    • 勝利者:「できないことはないけどめんどくせーよお」と言いながら気付いたらコードを書いてしまっている人
    • 敗北者:「むずかしいけど何とかできるよ」と言って、グチャグチャで力技のコードを書く人

まとめ

以上、いかがでしたでしょうか。世の中にいろんな人や考え方があるのはいいことなのですが、間違っていることは間違っているとみんなが気付けるようになっていないと困りますね。
  • 勝者: いつも問いを持っている人、脊髄反射で「なぜ?」と思う人
  • 敗者: いつも答えを持った気になって思考停止している人
  • 勝者: できることとできないことの区別がついた上で、できるかどうか分からない新しいことに挑戦する人
  • 敗者: できることとできないことに区別がつかない人
  • 勝者: あらゆる答えの中に新しい問題を見い出す人
  • 敗者: あらゆる問題の中に古い答えを見い出す人
  • 勝者: そこがゴルフのコースかどうか確かめて、自分の持っているクラブを確認する人
  • 敗者: 森の中でバットを振ってゴルフしようとする人
  • 勝者:「できないことはないけどめんどくせーよお」と言いながら気付いたらコードを書いてしまっている人
  • 敗者:「むずかしいけど何とかできるよ」と言って、グチャグチャで力技のコードを書く人
こうやって並べて見ると対称性がなくて詩的じゃないのですが、まー間違っていることを間違っていると言った方がよい。

ごもっとも。

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2010年5月4日火曜日

Tech Wave:Facebookが開くポストGoogle時代【まとめ記事】

約15年のこれまでのウェブの歴史を見ると、人が集まるメディアとそれをマネタイズする仕組みがカップリングされたときに1つの時代が形成されてきた。

 ウェブが誕生してまもないころユーザーはポータルに集まった。「ポータル」はメディアとなり、それをマネタイズする仕組みである「バナー広告」とカップリングされポータルの時代を築いた。その時代の覇者になったのが米Yahoo!だった。

 次に人々は検索エンジンに集まった。中でもGoogleはその使い勝手のよさから人気となったが、そのトップページに広告を載せないことに人々は首をかしげた。「Googleはどうやって収益化するつもりなんだろう」・・・。Googleにユーザーが集まりメディア化していたにも関わらずマネタイズの手法がなかったので、Googleの時代と考える人はほとんどいなかった。

 人々がGoogleの時代を認識し始めたのは、Googleが検索連動型広告で大きな収益を上げ始めてからである。「検索」はメディアになり「検索連動型広告」とカップリングされて新しい時代を築き、Googleはその時代の覇者になったのだった。

 そしてユーザーは今、ソーシャルメディアに集まり始めた。ユーザーの滞在時間を比較しても、検索に費やす時間の何倍もの時間を人々はソーシャルメディア内で過ごしている。だがまだ「ソーシャルメディア」とカップリングされるような新しいマネタイズ手法は確立していない。なので多くの人がまだGoogleの時代だと考えている。

 しかし世界最大のソーシャルメディアであるFacebookは、マネタイズ手法確立の一歩手前まで駒を進めている。Facebookが4月22日に発表した新戦略で、Facebookがウェブ全体をFacebookの人間関係で覆い、その人間関係を通じて情報、広告が流れる仕組みを作ろうとしていることが明らかになったのだ。

Facebookの戦略は嫌いじゃない。

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webDICE - 骰子の眼 - [CINEMA] 「教科書に載らない歴史の裏側を暴き出すマジメな社会派映画」─渡辺文樹『三島由紀夫』『赤報隊』クロスレビュー

政治と暴力を計3時間半に渡って描く最新作「みんな観ないで好き勝手なことを言ってるけど、それでは批判はできないよ」。
烏山区民会館ホールで行われた渡辺文樹監督上映会、会場入口に設置された物販スペース

3月23日(火)烏山区民会館ホールで渡辺文樹の新作『三島由紀夫』『赤報隊』の上映会が行われた。『政治と暴力』というテーマで2部構成で描かれるこの作品は、渡辺監督自ら演じる元自衛官の生き方を通して、監督独自の視点で日本の70~80年代にうごめいた政治と経済の問題を描いている。この日は、彼のこれまでの作品『天皇伝説』『ノモンハン』『御巣鷹山』も合わせて上映された。全作品終了後、機材の搬出のさなかに、渡辺監督に話をうかがうことができた。

── 『三島由紀夫』『赤報隊』は、とてもセンセーショナルな題材を扱われている、というよりもひとりの主人公の人間ドラマとしてとても丁寧に描かれていると感じました。監督としては今作はどのような狙いを?

内容はこれでも一部なんだ。もっといろんな展開があるんだけれど、どうしても長くなってしまうんだ。1回で観られるようにしたかったし、もう少し短くすることもできるんだけれど、今回は2時間以内には収まらなかった。やっぱりまだ俺にも演出の面でいろいろ課題があるんですよ。役者のせいにはしたくないけれど、もうちょっとできる人を使いたいと思う時もあります。ただやっぱり素人だからな。俺も素人だけれど、もうちょっと意識がしっかりした人とやりたいと思うけどね。

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会場となった烏山区民会館ホールの館内

── それはいま制作において監督が抱えている課題なんですか?

経済的な問題はある程度解決すると思うけれど、役者に関しては、もともとないところから始めているんだから、ないから諦めるというわけにはいかんからね。それは、お客さんへ見せるものとしてきちんともう少しやらなければだめだと思うね。

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『政治と暴力』より

── 私は渡辺監督の上映会にはじめて参加したのですが、こんなに映画としての面白さを感じられるのかと感激しました。

みんな観ないで言ってるからね。それで好き勝手なことを言ってるから。それは批判はできないよ。

── 本日の上映に関しては、なにか妨害のようなものがあったのですか?

俺個人にはありますよ、公安がついてまわっているから。今回は神奈川のほうに宿を取ったけれど、そこからついてくるからね。そういうのを巻いて、それでもポスターを貼ったんですよ。1回世田谷で捕まって、20,000円くらい罰金を払ったんだよ、それで12時間くらおさえられて。それは3月13日の夜。

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── 自ら演じられている渡辺という元自衛官は、以前から取り上げてみたい人物像だったのですか?

そうだね、こういうのはどこでも、今でもいるからね。モデルになっている人はいますよ、実際こういう自衛官というのはいたから。殺されている自衛官もいた。右翼団体を組織したり、政治家に金をばらまいたりしたんだから。それを肉付けしていった。松川事件も詳しく描きたかったけれど、時間がなかった。地元では、もちろん米兵もいたけれど、検察も警察も事件現場にはいっぱいきて民家に待機していたんだから。だから地元じゃないとわからないところもあるんだけれどね。

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『政治と暴力』より

── これからも撮り続けていくお気持ちですか?

次回も構想しているんだ。テーマは「原発」と「天皇」ですよね。天皇は原爆を落とされることを全て知っていたんだよ。原爆は落とされるべくして落とされたというかね。それで広島と長崎の人が犠牲になったんだ。それが戦争といえば戦争だけれど、そんなことは認められないよな。

(インタビュー・文:駒井憲嗣)
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『三島由紀夫』『赤報隊』を発表した渡辺文樹監督

【関連記事】
・『ノモンハン』『天皇伝説』ライブ上映興行師 渡辺文樹監督インタビュー(2008.11.26)


■渡辺文樹プロフィール

映画監督。福島県いわき市出身。学生時代から自主映画を製作、大学卒業後も家庭教師をしながら映画を製作する。1987年、『家庭教師』にて監督デビュー。 主な作品には、カンヌ国際映画祭出品、日本映画監督協会新人賞を受賞した『島国根性』(90)、松竹が出資・公開予定だったが、登場人物が実名だったため「人権侵害の疑いがある」として福島県法務局が調査に乗り出す騒ぎになり公開を拒否された『ザザンボ』(92)、各地で「金返せ」コールが起こった『罵詈雑言〈バリゾーゴン〉』(96)、天皇暗殺計画の話であったため、上映会の度に右翼の街宣車が押し掛け裁判にも発展した『腹腹時計〈ハラハラトケー〉』(99)、日本航空123便墜落事故の陰謀説(撃墜説)が題材となった『御巣鷹山』(05)、満洲国とモンゴル人民共和国の国境紛争をテーマにした『ノモンハン』(08)、天皇家の血脈について迫った『天皇伝説』(08)。


『政治と暴力』 第一部『三島由紀夫』 第二部『赤報隊』

2010年5月6日(木)
宮城県・仙台市イズミティ21小ホール[泉区役所隣 022-375-3101][地図を表示]
『腹腹時計〈ハラハラトケー〉』14:00
『天皇伝説』16:00
『三島由紀夫』18:00
『赤報隊』19:30
料金:各作品 999円(当日券のみ)

2010年5月17日(月)、18日(火)
福島県・郡山市公会堂[NHK向かい 024-934-1212][地図を表示]
17日上映『天皇伝説』18:30
18日上映『三島由紀夫』18:00
『赤報隊』19:30
料金:各作品大人1,200円 学生1,000円(当日券のみ)


脚本・編集・監督:渡辺文樹
キャスト:渡辺文樹、笹峰あい、唐沢民賢、森富士夫、中山治哉、橘家二三蔵、小川信行、田村三郎、今井耐介
製作:堀田澄江
照明:滝根三郎
撮影:二本松太郎
録音:堀田すみえ
助監督:福島大学旧学芸部一同
配給:“政治と暴力”製作上映実行委員会
2010年/モノクロスタンダード/『三島由紀夫』93分『赤報隊』121分

レビュー(3)


  • 大竹郁生さんのレビュー   2010-03-26 15:20

    三島由紀夫・赤報隊 を見た

    昨夜、なかなか見られないという渡辺文樹監督の標記作品を見た。90分と120分のモノクロ。 よくもまー、「3時間半も見たもんだ!」と思うが、監督の反体制の熱意と気力が惹き込む力を持っているのかナー。また監督がスライドを回す、スタートにあたりナマの...  続きを読む

  • 大勝文仁さんのレビュー   2010-04-01 11:46

    渡辺文樹の映画を見た。

     ずっと以前から気になっていたのに、なかなか東京で見る機会のなかった、渡辺文樹監督の映画を、みてきた。  僕にとって、初めて接する渡辺作品は、『政治と暴力』の第一部「三島由紀夫」第二部「赤報隊」。この二つは、ひとつながりの作品で、合計約3時間半...  続きを読む

  • ぴつ太さんのレビュー   2010-04-02 17:51

    何故に福島県はPUNKSを育むのか?~ 烏とカレーとスキヤキについての考察 ~

    『政治と暴力』 第1部:三島由紀夫 第2部:赤報隊 どちらにしようか迷ったら、どっちがロックだ?これで決めるぜ。ということで、先約をキャンセルして、渡辺文樹監督の自主上映会に参加してみた。 ちなみに、自主上映会に参加するのも初めてなら、渡...  続きを読む

ジャーナリスチックが好きなんで。

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2010年5月3日月曜日

まだ言うか Still Wanna Say?: 「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

アメリカ人の物事への対処法はかくもあからさまに力技的で、いろんな要素をすべて明るみに引っ張りだしてきてそれをどうにか言葉で片付けようとするものです。精神分析なんかまさにそれです。無意識の、記憶の奥底にあるものを引きずり出してきてそれを徹底して意識化し、片をつけてしまおうとする。それで精神分析医に1時間400ドル(4万円)も払って話を聴いてもらうのです。でも日本人は精神分析医のところに行く代わりに4000円持って飲みに行き、はっきりと口に出さないままなんとなくそこの優しい女将さんに慰めてもらってどうにか生きつなぐ。

 この、「はっきりと口に出さないまま、生きつなぐ」という処世が、じつはいまこの高度に情報化して交通化している現代日本社会で、急速に実効力を失いつつあるというのが、話半ばに至っての今回の私の論点なのです。従来のまことに日本人的な「なんとなく」の対処法だけでは、どうにも私たちは立ち行かなくなっているのではないか? それはこないだの新型インフルエンザのときの日本社会の右往左往に如実に現れていたようにも思うのです。

▼「身内」と「赤の他人」が構成する日本社会のあれやこれ

 私たち現代日本人の「なんとなく」の対処法は、周りが気心の知れた身内や仲間たちに囲まれているときにのみ有効です。日本人社会はずっとこれで通用してきました。というのも、私たちには自分以外の「他者」の分類として、どうも「身内」か「赤の他人」か、の2つしか存在しなかったからかもしれないと思うからです。

 携帯電話が普及し始めたころ、私は日本に帰ってくるたびに「車内での携帯電話は周りの人の迷惑になるのでご遠慮下さい」と繰り返される電車やバスや地下鉄でのアナウンスに、このしつこさは何なんだろうと考えていました。そりゃ電話口で普段より大声になってしまう人は多いし、それをうるさいと思う人もいるでしょうが、はっきり言ってこのアナウンスの方がうるさかった。言葉は丁寧だがその実ひとを子供扱いしているようなこの慇懃無礼な命令はいったい何なんだろう、と感じていたのです。

 対してアメリカでは、というかニューヨークなどの都会では、街角でもビルの中でもスーパーの中でも、他人に声を掛けることにあまり抵抗がないように思えます。ひとにぶつかりそうだったらエクスキューズ・ミーと言うし、ぶつかっちゃったらソーリーと言う。バスでも地下鉄でもよく堂々と会話してるし、高齢者に席を譲る場合もきちんと言葉を掛けて、譲ったあとでもそれで終わらずけっこう長々となにかをしゃべったりもしているのです。こういうのはパーティーでも差が出ます。日本人の私は最初、ぜんぜん見ず知らずのひとたちに何を話してよいものか、いやそもそも話し掛けて失礼に当たらないか、なんてことを考えて時間が経っていました。それがアメリカ人たちはじつに自然に話題を振って、なんでこんなにおしゃべりなんだろうと思うくらい会話を続けるのです。映画館でもそうです。こないだ日本で母親といっしょに映画を見に行って、私がおかしい場面で大声で笑うものだから、見終わったあとで母親に「あんた、アメリカ人みたいね」と言われてショックを受けました。そういえば日本じゃ他人に囲まれている映画館で1人で大声で笑ったりはしない。アメリカじゃ笑いや拍手やため息や感嘆の発声はそう珍しいことではないのですが。

 逆に、アメリカ人のけっして口にしないことが、日本ではよく言葉になることがあります。いろんなおしゃべりをしながらも、アメリカ人はその相手のプライベートな部分に入っていくことは微妙に回避しているのです。たとえば、結婚しているのかどうか、恋人はいるのかいないのか、子供はいるのか、などの身元調査みたいな質問はよほど親しくならなければ訊いてきません。対して日本人というのは、話のきっかけ、というかそういう初対面の場面で何を話していいのかわからないからなのか、最初の質問から逆にそういうとても個人的なことだったりします。「ご家族は?」「カノジョ、いるの?」

 これは、べつにその質問の答えがほんとうに聞きたいというわけでもないのですね。では何かと言うと、こういう私生活、プライベートな部分に立ち入ることで、その相手と「身内」のような関係性を擬似的に創り上げるためのものなんです。それが彼らにとっての仲良しになるための唯一の道なのです。

 日本の政治家って、特に自民党政権時代、すごく失言が多かった。それはなぜかというと、あれ、みんな内輪話の最中にやっちゃうんですね。自分の後援会のパーティーとか、息のかかった地方政治家の応援会とか、みんな身内しか集まっていないと思ってるからその中で内輪だけに話せる冗談やら陰口やら大ボラやらを吹く。するとみんな、身内扱いされたと思って聞いている方もその「先生」を「なかなかこなれた人だ」「打ち解けた人だ」となって、いつか自分とツーカーの身内のように感じる。で、そういうインナーサークルを作って、そこで阿吽の呼吸で「みなまで言うな」の関係が成立している(ように感じる)のですね。

 そこでは身内以外はみんな「政敵」か「赤の他人」です。そして「赤の他人」はときには人間ですらない。

 満員電車の中でギューギュー詰めになっているときに、それを不快だと思わずにいられる方法は、身体を密着させている他人が人間だと思わないことです。ジャガイモかなんかだと思えば耐えられます。日本ではそれが直近の「他者」との付き合い方です。そんなジャガイモ=赤の他人が急に携帯電話で話して人間に戻ったら、それは「困惑」しますし「迷惑」だし「気持ち悪い」。私たちは、身内以外に他人とのうまい付き合い方を知らないのですから。それがあの神経症的な車内アナウンスの反復の理由なのではなかったか? 電車の中では、いや、公共の場では、日本人は友達同士でもないかぎり、人間ではないフリをしてじっと存在を消しています。映画館でもエレベーターの中でも。それが日本社会の身の処し方なのではないか? 極論を言えばつまり、「公共」に、人はいないのです。だから平気で電車の中で化粧もできるし、行き倒れのホームレスを見て見ぬフリもできる。

 対してアメリカ型社会は、プライベートとパブリックが並立しています。「私」と「公」の間を個人が行き来しています。他者は、自分とは違う可能性として他者のまま存在しているのです。そこではひとは「公」の場でも個人であり続ける。そしてなぜか、「私」と「公」の間に、自然な回路が通じてるんですね。だから簡単に他者に声も掛けるし、発言もするし、不正に抗議したりもする。

 ここから各種の社会運動が生まれたのです。「私」が「公」の部分へとカム・アウトすることを公民権運動と言います。そうやって黒人たちも女性たちも性的少数者たちも、そしてエイズ患者・感染者たちも主体としての人権を訴え、それを獲得してきました。

 現代日本には他者は「身内」と「赤の他人」しかいないと言いましたが、じつはだからといって「公」の場面が存在しないというわけではありません。たとえば街頭でTVインタビューなんかされると、政治に関しても経済に関してもさいきんの日本人は老若男女、とてもうまくしっかりと話したり意見を表明したりします。街頭や電車の中や行き倒れの人たちへの対応だって東京と大阪では違うかもしれませんから一概には言えません(ほんと、論を書きながら白状するのもおかしいですが、こういうのは本当のところはスパッと断言なんかできないんですがね)。でも、「私」と「公」とを行き来する回路になんかちょっとしたスイッチがあって、米国型社会よりもそのスイッチが入りづらいということはあると思う。これは、コミュニティの性格と、それを基にした教育の違いなんでしょう。

 それと他者なんですが、じつは日本には「身内」「赤の他人」の他にもう1つあります。英語で言う guest と customer というのが一緒くたになった「お客さん」という概念です。これもとても日本的なもので、お店に行くと日米では対応がぜんぜん違います。なので正確には、私たち日本人の他人との関わり方は「身内」と「赤の他人」と「お客さん」の3つに大別されると言った方がいい。もっとも、「お客さん」というこの心地よいカテゴリーを論じるにはちょいと横道が必要なんで、その詳細はまた別の機会に譲ることにしましょう。

▼排除は感染拡大につながり、 受容は感染を食い止める

 さて、日本人は「身内」以外の他者との付き合い方を(あとは「お客さん」としてでしか)知らない、と書きました。「公共」という「他者との共通の場」が普段からは成立しにくいからです。そこに「公」に「共」に生きる他者はなかなか見えてこない。これはありとあらゆる機会に破綻を来します。たとえばエイズ患者はどう考えればよいのでしょうか?

 日本人の付き合い方は一方で身内の温かさを持ったとても心地よいものでもあります。でも、エイズ患者を身内に持つことを考えられるでしょうか? いや、優しい日本人はきっとそれをも厭わないでしょう。「私があなたを身内として守る」という思いを熱く抱くひとは必ずいる。むしろたくさんいるはずです。でも、そのことは往々にして「他の人には言わない方がいいかもしれない」となる。なぜなら、そのエイズ患者を「他の人」と共有する公共の場がないのですから。すべては身内の内側で対処するしかないのです。ゲイの場合もそうです。「よくゲイだと打ち明けてくれた。私はずっと友だちだ。でも、それは他の人には言わない方がいいかもしれない。なぜなら、他の人も私と同じように理解があるとは限らないから」。なぜなら、他の人と思いを同じくできる共通の「公共」の場が常設されていないからです。

 かくしてエイズ・パニックのときに日本社会は破綻を来しました。どう対処するかさっぱり指針を決められないまま、犯人探しのような感染者探しが続きました。エイズ患者がカム・アウトしていく先の「公」の場がないので、2010年の今でも、エイズの患者・感染者は不可視のままです。

 同じことが新型インフルエンザの騒ぎでも起きています。自民党政府が行ったことは新型流感の感染者(らしき人たち)をまさに「赤の他人」の領域に隔離することだったのです。それは「身内」からの排除の論理に他なりません。そしてこの排除の論理がまったく有効でないことは、すでにエイズ禍のときに学習していなければならないはずのものだったのです。なのにそれをしていなかった。

 米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除
しないことでした。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本だったのです。なぜならば、排除すれば感染者は隠れるだけだからです。しかし受容すれば感染は明るみの中でどうにかみんなで食い止められる。それはまさに「身内」の力なのですが、その身内の力を徹底させるために他者の存在を認める「公共」の場からの言説が必要だったのです。

 09年春からの新型流感に対して、自民党政府がやったのはすべてその逆でした。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

 あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「自業自得」論が大手を振っていましたっけ。これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さで、「疑い例」の高校生には「新型流感がはやっているのを承知で海外渡航したのだから自業自得だ」といううんざりするくらい同じ非難が浴びせかけられました。おまけに「他人の迷惑を考えない」という携帯電話と同じ理屈も。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そういうことに目を奪われる分、対策の遅れにもつながりかねないのに。

 果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

 もう一度言いましょう。排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなります。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとするのが人情というものでしょう。

 欧米ではそうやってHIVの感染を抑えることに成功してきました。エイズやセックスにまつわる多くのスティグマを解体しながら、欧米の教育現場では「公」に「共」に生きるという言説を、飽きることなく繰り返し子供たちに教えることで未来をつないできたのです。もちろんそのすべてが成功しているわけではありません。ただ、そういう地道な教育活動なしで、何かが成功するということもまたないのです。

 日本人の身内社会の温かさと心地よさを、そうしてどうにか「公共」の次元にも広げていきたいものです。それを担える学校の先生たちの仕事は、苦労する甲斐のあるものだと私は信じています。
(了)

考えさせられます。

Posted via web from realtime24's posterous

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