2010年5月3日月曜日

まだ言うか Still Wanna Say?: 「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

アメリカ人の物事への対処法はかくもあからさまに力技的で、いろんな要素をすべて明るみに引っ張りだしてきてそれをどうにか言葉で片付けようとするものです。精神分析なんかまさにそれです。無意識の、記憶の奥底にあるものを引きずり出してきてそれを徹底して意識化し、片をつけてしまおうとする。それで精神分析医に1時間400ドル(4万円)も払って話を聴いてもらうのです。でも日本人は精神分析医のところに行く代わりに4000円持って飲みに行き、はっきりと口に出さないままなんとなくそこの優しい女将さんに慰めてもらってどうにか生きつなぐ。

 この、「はっきりと口に出さないまま、生きつなぐ」という処世が、じつはいまこの高度に情報化して交通化している現代日本社会で、急速に実効力を失いつつあるというのが、話半ばに至っての今回の私の論点なのです。従来のまことに日本人的な「なんとなく」の対処法だけでは、どうにも私たちは立ち行かなくなっているのではないか? それはこないだの新型インフルエンザのときの日本社会の右往左往に如実に現れていたようにも思うのです。

▼「身内」と「赤の他人」が構成する日本社会のあれやこれ

 私たち現代日本人の「なんとなく」の対処法は、周りが気心の知れた身内や仲間たちに囲まれているときにのみ有効です。日本人社会はずっとこれで通用してきました。というのも、私たちには自分以外の「他者」の分類として、どうも「身内」か「赤の他人」か、の2つしか存在しなかったからかもしれないと思うからです。

 携帯電話が普及し始めたころ、私は日本に帰ってくるたびに「車内での携帯電話は周りの人の迷惑になるのでご遠慮下さい」と繰り返される電車やバスや地下鉄でのアナウンスに、このしつこさは何なんだろうと考えていました。そりゃ電話口で普段より大声になってしまう人は多いし、それをうるさいと思う人もいるでしょうが、はっきり言ってこのアナウンスの方がうるさかった。言葉は丁寧だがその実ひとを子供扱いしているようなこの慇懃無礼な命令はいったい何なんだろう、と感じていたのです。

 対してアメリカでは、というかニューヨークなどの都会では、街角でもビルの中でもスーパーの中でも、他人に声を掛けることにあまり抵抗がないように思えます。ひとにぶつかりそうだったらエクスキューズ・ミーと言うし、ぶつかっちゃったらソーリーと言う。バスでも地下鉄でもよく堂々と会話してるし、高齢者に席を譲る場合もきちんと言葉を掛けて、譲ったあとでもそれで終わらずけっこう長々となにかをしゃべったりもしているのです。こういうのはパーティーでも差が出ます。日本人の私は最初、ぜんぜん見ず知らずのひとたちに何を話してよいものか、いやそもそも話し掛けて失礼に当たらないか、なんてことを考えて時間が経っていました。それがアメリカ人たちはじつに自然に話題を振って、なんでこんなにおしゃべりなんだろうと思うくらい会話を続けるのです。映画館でもそうです。こないだ日本で母親といっしょに映画を見に行って、私がおかしい場面で大声で笑うものだから、見終わったあとで母親に「あんた、アメリカ人みたいね」と言われてショックを受けました。そういえば日本じゃ他人に囲まれている映画館で1人で大声で笑ったりはしない。アメリカじゃ笑いや拍手やため息や感嘆の発声はそう珍しいことではないのですが。

 逆に、アメリカ人のけっして口にしないことが、日本ではよく言葉になることがあります。いろんなおしゃべりをしながらも、アメリカ人はその相手のプライベートな部分に入っていくことは微妙に回避しているのです。たとえば、結婚しているのかどうか、恋人はいるのかいないのか、子供はいるのか、などの身元調査みたいな質問はよほど親しくならなければ訊いてきません。対して日本人というのは、話のきっかけ、というかそういう初対面の場面で何を話していいのかわからないからなのか、最初の質問から逆にそういうとても個人的なことだったりします。「ご家族は?」「カノジョ、いるの?」

 これは、べつにその質問の答えがほんとうに聞きたいというわけでもないのですね。では何かと言うと、こういう私生活、プライベートな部分に立ち入ることで、その相手と「身内」のような関係性を擬似的に創り上げるためのものなんです。それが彼らにとっての仲良しになるための唯一の道なのです。

 日本の政治家って、特に自民党政権時代、すごく失言が多かった。それはなぜかというと、あれ、みんな内輪話の最中にやっちゃうんですね。自分の後援会のパーティーとか、息のかかった地方政治家の応援会とか、みんな身内しか集まっていないと思ってるからその中で内輪だけに話せる冗談やら陰口やら大ボラやらを吹く。するとみんな、身内扱いされたと思って聞いている方もその「先生」を「なかなかこなれた人だ」「打ち解けた人だ」となって、いつか自分とツーカーの身内のように感じる。で、そういうインナーサークルを作って、そこで阿吽の呼吸で「みなまで言うな」の関係が成立している(ように感じる)のですね。

 そこでは身内以外はみんな「政敵」か「赤の他人」です。そして「赤の他人」はときには人間ですらない。

 満員電車の中でギューギュー詰めになっているときに、それを不快だと思わずにいられる方法は、身体を密着させている他人が人間だと思わないことです。ジャガイモかなんかだと思えば耐えられます。日本ではそれが直近の「他者」との付き合い方です。そんなジャガイモ=赤の他人が急に携帯電話で話して人間に戻ったら、それは「困惑」しますし「迷惑」だし「気持ち悪い」。私たちは、身内以外に他人とのうまい付き合い方を知らないのですから。それがあの神経症的な車内アナウンスの反復の理由なのではなかったか? 電車の中では、いや、公共の場では、日本人は友達同士でもないかぎり、人間ではないフリをしてじっと存在を消しています。映画館でもエレベーターの中でも。それが日本社会の身の処し方なのではないか? 極論を言えばつまり、「公共」に、人はいないのです。だから平気で電車の中で化粧もできるし、行き倒れのホームレスを見て見ぬフリもできる。

 対してアメリカ型社会は、プライベートとパブリックが並立しています。「私」と「公」の間を個人が行き来しています。他者は、自分とは違う可能性として他者のまま存在しているのです。そこではひとは「公」の場でも個人であり続ける。そしてなぜか、「私」と「公」の間に、自然な回路が通じてるんですね。だから簡単に他者に声も掛けるし、発言もするし、不正に抗議したりもする。

 ここから各種の社会運動が生まれたのです。「私」が「公」の部分へとカム・アウトすることを公民権運動と言います。そうやって黒人たちも女性たちも性的少数者たちも、そしてエイズ患者・感染者たちも主体としての人権を訴え、それを獲得してきました。

 現代日本には他者は「身内」と「赤の他人」しかいないと言いましたが、じつはだからといって「公」の場面が存在しないというわけではありません。たとえば街頭でTVインタビューなんかされると、政治に関しても経済に関してもさいきんの日本人は老若男女、とてもうまくしっかりと話したり意見を表明したりします。街頭や電車の中や行き倒れの人たちへの対応だって東京と大阪では違うかもしれませんから一概には言えません(ほんと、論を書きながら白状するのもおかしいですが、こういうのは本当のところはスパッと断言なんかできないんですがね)。でも、「私」と「公」とを行き来する回路になんかちょっとしたスイッチがあって、米国型社会よりもそのスイッチが入りづらいということはあると思う。これは、コミュニティの性格と、それを基にした教育の違いなんでしょう。

 それと他者なんですが、じつは日本には「身内」「赤の他人」の他にもう1つあります。英語で言う guest と customer というのが一緒くたになった「お客さん」という概念です。これもとても日本的なもので、お店に行くと日米では対応がぜんぜん違います。なので正確には、私たち日本人の他人との関わり方は「身内」と「赤の他人」と「お客さん」の3つに大別されると言った方がいい。もっとも、「お客さん」というこの心地よいカテゴリーを論じるにはちょいと横道が必要なんで、その詳細はまた別の機会に譲ることにしましょう。

▼排除は感染拡大につながり、 受容は感染を食い止める

 さて、日本人は「身内」以外の他者との付き合い方を(あとは「お客さん」としてでしか)知らない、と書きました。「公共」という「他者との共通の場」が普段からは成立しにくいからです。そこに「公」に「共」に生きる他者はなかなか見えてこない。これはありとあらゆる機会に破綻を来します。たとえばエイズ患者はどう考えればよいのでしょうか?

 日本人の付き合い方は一方で身内の温かさを持ったとても心地よいものでもあります。でも、エイズ患者を身内に持つことを考えられるでしょうか? いや、優しい日本人はきっとそれをも厭わないでしょう。「私があなたを身内として守る」という思いを熱く抱くひとは必ずいる。むしろたくさんいるはずです。でも、そのことは往々にして「他の人には言わない方がいいかもしれない」となる。なぜなら、そのエイズ患者を「他の人」と共有する公共の場がないのですから。すべては身内の内側で対処するしかないのです。ゲイの場合もそうです。「よくゲイだと打ち明けてくれた。私はずっと友だちだ。でも、それは他の人には言わない方がいいかもしれない。なぜなら、他の人も私と同じように理解があるとは限らないから」。なぜなら、他の人と思いを同じくできる共通の「公共」の場が常設されていないからです。

 かくしてエイズ・パニックのときに日本社会は破綻を来しました。どう対処するかさっぱり指針を決められないまま、犯人探しのような感染者探しが続きました。エイズ患者がカム・アウトしていく先の「公」の場がないので、2010年の今でも、エイズの患者・感染者は不可視のままです。

 同じことが新型インフルエンザの騒ぎでも起きています。自民党政府が行ったことは新型流感の感染者(らしき人たち)をまさに「赤の他人」の領域に隔離することだったのです。それは「身内」からの排除の論理に他なりません。そしてこの排除の論理がまったく有効でないことは、すでにエイズ禍のときに学習していなければならないはずのものだったのです。なのにそれをしていなかった。

 米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除
しないことでした。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本だったのです。なぜならば、排除すれば感染者は隠れるだけだからです。しかし受容すれば感染は明るみの中でどうにかみんなで食い止められる。それはまさに「身内」の力なのですが、その身内の力を徹底させるために他者の存在を認める「公共」の場からの言説が必要だったのです。

 09年春からの新型流感に対して、自民党政府がやったのはすべてその逆でした。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

 あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「自業自得」論が大手を振っていましたっけ。これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さで、「疑い例」の高校生には「新型流感がはやっているのを承知で海外渡航したのだから自業自得だ」といううんざりするくらい同じ非難が浴びせかけられました。おまけに「他人の迷惑を考えない」という携帯電話と同じ理屈も。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そういうことに目を奪われる分、対策の遅れにもつながりかねないのに。

 果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

 もう一度言いましょう。排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなります。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとするのが人情というものでしょう。

 欧米ではそうやってHIVの感染を抑えることに成功してきました。エイズやセックスにまつわる多くのスティグマを解体しながら、欧米の教育現場では「公」に「共」に生きるという言説を、飽きることなく繰り返し子供たちに教えることで未来をつないできたのです。もちろんそのすべてが成功しているわけではありません。ただ、そういう地道な教育活動なしで、何かが成功するということもまたないのです。

 日本人の身内社会の温かさと心地よさを、そうしてどうにか「公共」の次元にも広げていきたいものです。それを担える学校の先生たちの仕事は、苦労する甲斐のあるものだと私は信じています。
(了)

考えさせられます。

Posted via web from realtime24's posterous

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