2011年1月19日水曜日

坂本乙女: 八つぁん

坂本乙女

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坂本乙女(さかもと おとめ)天保三年(1832)~ 明治十二年(1879)は、土佐藩郷士坂本八平と幸の三女で、坂本龍馬の姉です。乙女という名は「とめ」と読まれることもあります。 薙刀がうまく、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた文武両道の女性だったと言います。また、乙女は大柄な身体で男勝りの女丈夫だったようで「坂本のお仁王様」などと噂されていました。 龍馬も「乙大姉の名は諸国にあらわれ居り、龍馬より強いと評判なり」と乙女宛の手紙に書いてます。

弘化三年(1846)に母親・幸が亡くなった後は龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを龍馬に教え、また龍馬が当時患っていた夜尿症を治したと言われています。 安政三年(1856)典医岡上樹庵と結婚して一男一女をもうけましたが、家風や夫の暴力・浮気などが原因で慶応三年(1867)に離婚して実家に戻りました。 
乙女は龍馬のよき理解者として相談に乗ったり励ましたりしたと言います。坂本家の家族・親戚は、龍馬の考えや行動を十分に理解してはいなかったようですが、そのなかで姉乙女だけが龍馬の良き理解者でした。 龍馬は家族には脱藩の意志を打ち明けなかったのですが、乙女はそれを察して父伝来の一刀を龍馬に与えたと言います。

「さてもさても、人間の一生で合点いかないことが多いのは当然であり、運が悪ければ、風呂から出ようとして転び、金玉を潰して死ぬという不運に見舞われる者もいる。そんな者に比べれば、私などは運が強く、どれだけ死にそうな場面に遭遇しても死ぬこともなく、たとえ自分から死のうと思っても生きなければならない状況になってしまう。いまの日本では第一の人物である勝麟太郎という人の弟子となり、以前からやりたいと思っていたことに日々努めています。そのため、私は四十歳になるころまでは高知の坂本家には帰らないつもりであり、権平兄さんにも相談いたしましたところ、最近は非常にご機嫌もよくなり、そうしてもよいと言うお許しがでました。  国のため、そして天下のため、力を尽くしております。どうぞ、そんな私の現状をお喜びいただけるようにお願いいたします。  かしこ。  三月二十日  乙様   龍 」。(姉乙女宛と確認された、文久三年(1863)三月二十日付けの龍馬の手紙です。龍馬の書いた手紙は135通残されていますが、姉乙女宛が17通あります)。

坂本竜馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都の下宿先近江屋で刺客に襲われ、三十三歳の若さで暗殺されました。十一月十五日は奇しくも龍馬の誕生日でした「天保六年(1835)十一月十五日、高知城の西、本町筋一丁目の町人郷士坂本家の次男として生まれました」。ひとり残されたお龍は、明治元年(1868)三月、土佐高知の坂本家に身を寄せましたが、坂本家には馴染めなかったようです。坂本家を出たお龍は、龍馬の墓がある京都東山に家を借り仏三昧の日を送っていました。 「龍馬が慕っていたお乙女姉さんは、私には親切にしてくれました。私が土佐を出る時もいっしょに近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれましたのは、お乙女姉さんでした。西郷さんが城山で死んだと聞いた時、お乙女姉さんは大声を上げてオイオイと泣き崩れたと後で聞きました」(お龍聞き書き)。

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