日本語の多くの文で主語としての「私」が要らないのは、「私」を音にする必要がないから、ということがここまででわかった。・・・月が出ている夜空を見ている二人がいて、そのうちの一人が言うとすれば「月が見える」である。「私は月が見える」は不自然である。これは、夜空を見ているという状況を二人が共有しているので、わざわざ「私は月が見える」と言わないのである。
日本語では、共同注視という認知状態から発話という言語状態に連続的に移れるので、わざわざ「私」という必要がないと言える。これに対して、英語では、共同注視という認知状態から、発話という言語状態に連続的に移れないので、わざわざ"I"と言わなければならないのである。
日本人は、認知的主体と言語的主体の連続性が大きく、認知的な部分と言語的な部分がなめらかに統合されている。これを言い換えれば、日本人の心は状況や環境に埋め込まれて度合いが大きいので、言葉で補う度合いが少なくてすむ、とも言える。
これに対して、イギリス人は認知的主体と言語的主体の連続性が小さく、認知的な部分と言語的な部分があまりなめらかに統合されていない。言い換えれば、イギリス人の心は状況や環境に埋め込まれている度合いが小さいので、言葉で補う度合いが大きくなるともいえる。P201-204
「日本人の脳に主語はいらない」 月本洋
via d.hatena.ne.jp
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