2009年9月8日火曜日

蕩尽伝説

* 恋とファルス

『感情教育』の主人公フレデリックにとって、女はまさに社会の象徴だった。初恋の人アルヌー夫人との関係が巧く行かなかったがゆえに、その後かれは社会への適応に失敗する。それが不可避であったことが巧みに描かれている。

これが不滅の青春小説であるゆえんは、青春の感動と感銘を描いたからではない。まして熟女趣味のせいなんかじゃない。真逆だ。「青春」なるものがファルス(笑劇)でしかない、一幕の喜劇でしかない、青年の野心や野望なるものは滑稽な錯覚でしかない、雄々しい男根(ファルス)は幻想のなかでしか屹立しない、このことを徹底的に暴き立てて見せたからである。

実際のところ、フレデリックが姦通できないのは、アルヌー夫人相手に近親相姦の恐怖に襲われるからである。フロベールはこのことをちゃんと書き込んである。かれは母なるものへの思慕を熟女に投影していた。この恋愛は倒錯している。

でも、ことによると、あらゆる恋愛は倒錯しているのかもしれぬ。自分自身が年増女ルイーズ・コレとの恋愛に破れたフロベールは、恋愛の仕組みについて熟考した。その成果が『感情教育』によく出ている。

恋愛は自然なものではない。文化的に仕組まれた人工的なものである。とりわけ19世紀フランスの場合、それは一種の通過儀礼として制度的なかたちで成立していた。

その欺瞞を徹底して暴きつつ、最後に結ばれずに終わったアルヌー夫人と語り合うフレデリックの姿に、フロベールは愚かなる善人のイメージをあたえる。愚かなるものだけが持つ始原の善性を感じさせる。それが物語全体を救っている。そうすることで作者は自分自身の青春をも救おうとしたのである。

* ふたりのナポレオンに挟まれ

フレデリックは結婚もできず、失意のまま中年を迎える。社会的適応に失敗する。必ずしも彼が軽佻浮薄だったせいではない。フロベールの生きた時代はフランス社会の激動期だ。世の中全体の動きが早すぎ、おっとりした田舎者には付いて行けなかった。というか、誰にもそんなことはできなかった。すべての人が流された。

2月革命以来の共和制が自らの愚行により自滅自壊し、ルイ=ナポレオンによる帝政が復古した。あらゆる希望が潰えた。もはや王も民衆も頼りにならぬ。宗教など問題外。すべての理想は嗤うべきものと化した。政治に振り回され、青春のひとときを恋と野心に虚しく浪費し、あとに苦い失望だけが残った。

19世紀フランスの青春を考えるうえで見逃せない重要なポイントをもう1つここで挙げておこう。それは初代ナポレオンの存在だ。天才という物語だ。

フランスの青春が倒錯せざるを得ないのは、ほんの少し前にナポレオンという人間離れした皇帝が実在してしまったことにもよる。コルシカの貧乏息子がパリに出てきた。フレデリックのようなボンクラと異なり、頭脳明晰、野心奔放、軍略縦横で、ヨーロッパのほぼ全域を自らの支配下に置いた。これ以上は考えられない立身出世物語だ。まさに青春の巨匠と言えよう。

日本なら幕末の志士たちみたいなもの。坂本龍馬に憧れるようなものだ。ま、龍馬なら日本レベルだし、しょせん浪人だから何とかなりそうな気もするが、ナポレオンは汎ヨーロッパ的な神聖皇帝だからなあ。無理。

こんな青春超人が実在してしまったために、フランスの青年は誰もがコンプレックスを抱え込むことになる。いくらがんばっても、さすがにナポレオンには勝てない。時代も全然ちがう。政治や軍事じゃとても無理。だから文筆で世界制覇をめざすスタンダールのような屈折した才能が出てくる。誰もがナポレオンを潜在的なライバルとせざるを得なかった。

かつて青春とは勝利と支配の別名だった。女なんか入れ食い状態。ナポレオンは世界を支配し、ゲーテは文芸を、ヘーゲルは哲学を支配した。万人を支配下に置くこと、オレ最高! オレ神! 自己愛バンザイ!

で、そんな世界征服なんて、凡人には夢見るだけ無駄だし無謀(笑)てか、天才ってのは必ずしも個人の才能の問題なんかじゃない。時代との巡り合わせのようなものが大きい。ロマン主義が衰え、時代が下るにつれ、だんだん誰もが身の程を弁えるようになった。19世紀末には幻滅が世を支配する。夢もロマンもない。「青春なんてもう古いぜ」というわけ。

第2次大戦後、極東の日本でフロベールがよく読まれたのは、社会にたいする幻滅という点に共感する若者が多かったからに相違ない。

そうでもなければ、とても読み通せる代物じゃない。ろくすっぽフランス料理も食べたことがないのに、微に入り細に渡るフレデリックの贅沢三昧な生活描写など味読できるわけがない。ブルジョワ生活を体験したことがない者に、ブルジョワ小説など味わえるわけがない。むしろ今の時代こそ、この作品の真価が理解できるのではないか。格差社会の到来で、階級社会とは何たるかが日本人にも実感されるようになった。

ついにフロベールは自分自身と自らの世代の生きた記録を残そうと志し、個人と歴史を重ね合わせる独特の語りの方法を工夫・開発し、後に「写実主義」(リアリズム)と呼ばれるジャンルの傑作をものした。それが『感情教育』である。

もっとも彼が捉えようとしたのは普通の意味での見たままの現実のリアリティなんかじゃない。たんに個人の内面でも、あるいは客観的事実としての社会でもなく、両者が融合し合い、影響を与え合う現実の複雑な多元性である。その手法は『朗読者』に見られるように今なお生きている。そのかぎりで不滅の青春小説だ。

それは青春という空理空想、そのアナクロニズムを否定し否認するために書かれた長大な青春小説である。自らを否定するために書かれた書物だ。青春を否定するためにも青春小説という体裁を取らぬわけに行かなかった。いわば青春小説の「脱構築」(デリダ)である。どうやらここには小説というジャンルの宿命がありそう。

観念的なものを徹底的に否定し否認した結果、それが世間で「リアリズム」と呼ばれるようになった。生の現実が目の前に転がっていて、それを写生するから写実主義なのでは必ずしもなく、むしろ現実と思われるものがつねに何らかの観念形態でしかないことを暴き出すのがリアリズムだ。

対象に向かい、いつも批判的な視座を取る。それが行き過ぎると自分自身を食い尽くし、骸骨のような文学になる。骨だけのほうが美しいという倒錯が生じる。そのようにして近代文学は自らの遺産を食い潰して行く。行き過ぎたリアリズムは自らのリアリティを失う。(つづく)


Posted via web from realtime24's posterous

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