余りに突飛なタイトルで面食らった方もあるかと思うが、これは言うまでもなく円谷英二・黒澤明両監督を指している。実は先日、円谷監督ゆかりの方たちから、この二人について今まで耳にしたことのない珍しい逸話を拝聴させて頂くことができた。そして、それが私だけの記憶に留めておくには勿体無いと思い、こうして筆を執る決意をした次第なのである。よって今回は、これまで様々な語られ方をしてきた「絶対者」としての両巨頭の係わり合いについて話を進めていきたいと思う。
先ずは両者につけられた渾名について考えてみよう。
今更云うまでもないことだが、「黒澤天皇」なる呼び方は、完全主義者としての彼のワンマン振りから冠される様になったもので、それ以前にもワンマンさと早撮りの手腕で有名な渡辺邦夫監督が、やはり同じ天皇の呼び名で斯界にまかり通っていた。無論、人間宣言が行われる以前の我が国では決して公には口に出来ない渾名だったのだろうが、一方では、他の作品の製作スケジュールなど一切お構いなしに最優先で作られる特別作品が「お召し列車」なる呼び名を奉られていたことからも想像されるように、案外陰では好んで用いられていた揶揄表現なのかも知れない。余談ながら、大映の「釈迦」などはお召し列車の最たるもので、作品自体は特大ヒットとなったものの、お正月作品を始めとする一般番組の制作体制が滅茶苦茶となって、結果的には経営の足を大きく引っ張った例もあった。
さて、円谷に付けられた「特撮の神様」なる呼び名であるが、これはどうやら旧海軍のスラングが元になっているようである。「砲術の神様」や「操艦の神様」などは、軍隊内での名人上手のことをダイレクトに示しているが、中にはカッパライを意味する「ギンバイの神様」やオンナ好きの「ポスりの神様」などの余りありがたくないものまであった。触らぬ神に祟りなし、といったニュアンスも含まれていたのかもしれない。円谷がマスコミから「神様」を冠されて呼ばれるようになったのは戦後の昭和三十年代になってからで、こうした軍隊での用語や俗謡は現在でも意外と用いられている場合が多いようだ。(例えば「おはようございます」の略語である「オッス」や、「山男の歌」「ズンドコ節等々)
他にも奇矯な行動で知られる人間に「名士」なる呼び名が付けられていたこともあるから、天皇にしろ神様にしろ、そこには決して良いニュアンスを含んでいなかったように思われる。
話しが脇に逸れるが、そうした「名士」の一人として有名なのが、「青島要塞爆撃命令」や「大冒険」で円谷と組んだことある古澤憲吾監督だ。「ヤツがクロサワなら、オレはフルサワだ」とばかりに自ら古澤天皇を名乗ったりしていたが、以前より奇矯な行動や逸話が多かったため、陰では「バカ天皇」と呼ばれていたとされる。(これは物故された俳優O氏よりの直聞) この古澤を一躍有名にしたのは、戦後間もない第三次東宝大争議での奮戦であろう。パレンバン空挺作戦の生き残りだったことから「パレさん」と呼ばれていた助監督時代の古澤は先にも名前の上がった天皇・渡辺邦夫の懐刀とされており、保守派の総本山とされるこの師匠の意を汲み過ぎて暴走し、或るときインターナショナルを合唱し赤旗を掲げる組合員の占拠する砧撮影所に単身乗り込み、スト破りの大太刀回りを演じたとされているのである。もっとも当時を知る人(左翼映画人のI氏)の言によれば、放送室の窓ガラスを破って侵入し、中にいた連中を縄で縛り上げた程度が真相とされるが::。こうした逸話の類は人口を経るうちに一回りも二回りも大きくなってしまうのが常らしい。古澤の場合は他にも、全身白ずくめの服装で白馬に跨って撮影所に出勤したとのエピソードもあるが、これも噂が独り歩きしたものだ。「パレさんの白ずくめ」は、やはり助監督をしていた頃の岡本喜八が全身「黒ずくめ」で有名だったことへの対抗意識の現れだとされる。岡本が黒一色のいでたちを好んだのは単に汚れが目立たぬからとの理由に過ぎなかったのだから、汚れ仕事の多い助監督の中では、古澤の姿は随分と伊達者に見えたことだろう。 一方の白馬うんぬんについてだが、これは彼がサード助監督時代にやらかした大失敗がもとになっているらしい。
或る作品で原節子の出演場面を撮影することになった。チーフを務める「和尚さん」こと松林宗恵から楽屋まで原を呼びにいくよう命じられた古澤は、「天下の原節子を、ただ普通に迎えに行くのは失礼ではないか」として、何を思ったのか撮影所内で時代劇に使っていた馬を勝手に引き出してビルトに向かったのである。さて、現場では待てど暮らせど原節子がやってこない。古澤も戻らぬままなので和尚さん達が訝しんでいると、そのうちに乗り手のない馬が所内をウロついているのに気づいた。流石にコレはオカシイと手分けして辺りを探したところ、何と所内を流れる仙川に架かる橋の上で、古澤が大の字になってノビているのが見つかり大騒ぎになった。結局これには事件性などなくて、古澤がオープンセットからビルトに向かう途中で落馬して勝手に目を回しただけのことだった。そうしたことが普段の白服姿と、古澤天皇なる自称から連想される昭和天皇の愛馬「白雪」のイメージが結びついて伝説が生まれたものと想像されるのだ。
古澤監督の件りが長くなったが、かつての映画界には以上のような「名士」の類が数多存在していて、中でも一頭も二頭も抜きん出ていたのが「神様」や「天皇」といった二つ名で通っていた円谷であり黒澤であったのだろう。 さて、ようやく本筋に戻る。
真偽は不明ながら、両者が不仲だったとする噂は以前よりしばしば仄聞するところである。しかしその大半は撮影時の電力の奪い合いに関するモメゴトに終始しているように思われる。片やハイスピード多用の円谷組、一方は焦点深度の大きなパンフォーカスで知られる黒澤組。ともに通常撮影に数倍する電力を喰うため、それぞれの助監督が組のメンツをかけて対峙し合うこととなり、中野昭慶が吐いたとされる「そっちが天皇なら、こっちは神様だぞ」との名台詞を生むこととなった。
果たして両者が互いをどのような感情を持って眺めていたのかは判らぬが、それを伺い知るヒントと言える発言を本多猪四郎が残している。
戦前、まだ円谷・本多ともに面識がなかった時期のこと、或るとき本多は仲の良かった黒澤と連れ立って円谷が熊谷陸軍飛行学校で撮影した航空兵向けの軍事教材映画(作品名はわからない)の社内試写に足を運んだ。このとき本多は隣席に並んだ黒澤が珍しく躍起になって、撮影に使われた特殊技術の解説をおこなったことが酷く印象に残ったとしている。
考えるに黒澤は常に自分がお山の大将でいたいとする一面があったから、その作品を撮影した人間の才能に一種の嫉妬の念、もしくは好敵手が出現したかの感を抱いたのかもしれない。一方の本多は「こんなキャメラマンと仕事がしてみたい」との思いを持ったとするから、この二人の性格の違いを実に良く現したエピソードだと云えよう。
その後、本多は「加藤隼戦闘隊」の本編班チーフ助監督として、端無くもその希望を叶えることができた。また同じ時期、円谷を好敵手と捉えていた(と想像される)黒澤が円谷と一緒に仕事をする可能性が実はあった。
と言うのは、黒澤の自叙伝などによると、当時、海軍省の命令で黒澤が監督を務める航空戦を主題とした戦意高揚映画の企画が進められていたとされるからだ。従って、これが実現した暁には作品の性格上、円谷率いる特技課の全面協力が為されたことは想像に難くなく、後年の我々から見れば正に夢のコラボが見られていた筈だった。しかし現実には戦局悪化に伴って、肝腎の言い出しっぺである海軍側に映画に協力している余裕すらなくなってしまい、終には幻の企画に終わった。もっとも黒澤の場合、誠実さを絵に描いたようだとされる本多猪四郎とは異なり、古澤以上に自己主張の強烈なその性格から鑑みて、果たして本編と特撮のコンビネーションが円滑におこなえたか否か不安が残る。戦後、黒澤の「蜘蛛巣城」ではクレジットに名前こそ無いが、ラスト近くで蜘蛛手の森が動き出す場面を円谷の陣頭指揮でかなりの尺数をミニチュア撮影しながらも、完成作品ではバッサリ切り落とされて僅かしか使われなかったこともあり、結局は編集権を巡ってモメにモメた松林組の場合と同様の確執が生じたかも知れない。松本染升の台詞じゃないが、「両雄並び立たず」とは良く言ったものだ。
やがて世界的名声を得てからの黒澤が予算も時間もフンダンに掛けて映画を作っている様子を円谷が横目に睨んでいたとする逸話も聞かぬではないが、その当人も間もなく「ゴジラ」の成功で特撮の神様に祀り上げられ、東洋最大のプールや専用の特大ステージ、更には桁違いに高価な光学プリンターまでも会社に誂えさせて悦に入るようになる。前述の不仲説がまことしやかに流布されるようになったのも、そうした背景があった為なのかもしれぬ。そして、この手の刷り込みとは恐ろしいもので、かく云う筆者自身が真偽も定かではない噂を全くの無批判で受け入れていたのだから始末が悪い。だから、次に述べる両者の一挿話を耳にしたときの感激が一塩のものであったのも無理も無いことと云えよう。
さて、それを語って頂いたのは円谷英二にゆかりの深いスタッフの一人である。
黒澤が代表作の一つとなる「天国と地獄」を撮影していたときのことだった。
劇中、証拠隠滅を謀る誘拐犯が身代金引渡しに用いた鞄を焼却した際に、仕掛けられた特殊な薬品のために煙突からピンク色(正しくは藤色)の煙が立ち昇る場面がある。
この作品はモノクロで撮影され、問題のシーンのみをカラーで描くのが黒澤の狙いだった。ところが黒澤のイメージした色がどうしても表現できず、実に苦心惨憺たる撮影になったと云うのである。これは実際に色付きの煙を煙突から出して撮影したのではなく、フィルムに後処理で彩色して色の表現を試みたもので、ロケ先で撮影の邪魔になる民家を立ち退かせるといった横車を引き慣れた流石の黒澤天皇も、純粋な技術上の問題となっては勝手が違ったようだ。
そして結局はどうしても解決が付かず、彼が最後に縋り付いた「藁」こそが、不仲と噂され、そして実際に電力や大ステージの奪い合いで対立したことのある円谷だったのである。
グラリと特技課のスタッフルームを訪れてこれまでの試行錯誤の経過を縷々説明し、「教えてください」とえらく素直に頭を下げた天皇・黒澤に対して、このとき円谷は、「そりゃあ君、オレンジ色のフィルターを通さないからだよ」と事も無げに答えたと云う。これまでの行き掛かりや、仲が悪いとする風説など毛ほども感じさせぬ快活な物言いだった。
結果、御託宣ならぬ円谷の助言のお陰で件の場面は無事仕上がり、映画「天国と地獄」を象徴する名場面の一つとなった。
後になって円谷はこのときのことを、「モノクロ映画の中で観客に色彩を見せようとするヤツのこだわりに対して、自分はカツドウ屋としての心意気を覚えたのダ」とスタッフたちにしみじみ語ったのだそうだ。
人生、意気に感じる 何とまぁ黴臭く、浪花節的で、前時代的情緒に溢れた言い回しなのだろう。だが、そうした日本的情動を至高なものとしていたカツドウ屋たちのいた頃の映画の何と輝いていたことか。(だからと云って、そうした人々が姿を消してからの日本映画はダメなのだとする短絡的な結論を導き出すことには非常な抵抗を感じるが::)
映画「天国と地獄」から二年後、黒澤は東宝での彼の集大成とも呼べる「赤ひげ」を撮り上げたのを最後に長い沈黙期に入る。円谷もまた、斜陽著しい映画界を横目に見ながら不帰の客となった。神様だとか天皇といったヒエラルキーの頂点に立つものの名を冠された両者の消え去るのと踵を接するかのように、映画を取り巻く状況や製作体制そのものが大きく一変し、名利欲得よりも心意気を好しとするカツドウ屋たちが罷り通った時代の終焉が始まった。常に時代は変わるのだと云ってしまえばそれまでだが、やはり心情的には円熟期の天皇・神様両者の銀幕上での競演を見てみたかったことに違いはない。黒澤本人に特撮に対する興味が無かった訳は全く無く、事実、本多・円谷作品に常連の某俳優が酒の席で黒澤に「特撮映画は面白いですよ。いっぺん監督もやってみたらどうですか?」と散々焚きつけてその気にさせ、後で本社の人間から「アノ人が本気で特撮ものを撮り出したら東宝は潰れてしまうからヤメてくれ」と釘を刺された、なんて笑い話も残っている位なのだから。
さて最後に今一つ、円谷と黒澤の係わり合いについてのエピソードを披瀝して稿を閉じたいと思う。
これも円谷に重用された俳優N氏の証言であるが、昭和二十九年に第一作「ゴジラ」の制作がおこなわれていた際、その特撮パートのラッシュを見るために黒澤が試写室にしょっちゅう顔を出していたと云うのだ。既に「羅生門」でグランプリを取り、また、その年の春には一年掛かりで撮った「七人の侍」で特大ホームランを飛ばしていた時期の黒澤がである。日本の映画人として頂点を極めた黒澤明でも、やはり円谷の仕事は気掛かりでならなかったと云うことなのだろうか。勿論、彼にしてみれば、
「大親友であるイノさん(本多猪四郎)のシャシンの出来栄えが気になるから」
なんてエクスキューズもあったのだろうが、それでも世界のクロサワが試写室の闇の中で、以前に航空兵教育映画を見たときのようにして「て「ゴジラ」の特撮の技術解明にアレコレと躍起になっている姿を想像するのは、ちょっと楽しい。 (本稿終わり)
via g-tokusatsu.com
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