天璋院は、しまひまで、慶喜が嫌ひサ。それに、慶喜が、女の方はとても何もわかりやしないと言つたのが、ツーンと直に奥へ聞えて居るからネ。そして、ウソばかり言つて、善いかげんに言つてあるから、少しも信じやしないのサ。 慶喜殿が帰られた時(鳥羽・伏見の戦に敗れて江戸に帰った)に、天璋院を薩摩へ還すといふ説があつたので、大変に不平で「何の罪があつて、里にお還しになるか、一歩でも、ココは出ません、もし無理にお出しになれば自害する」と言ふので、昼夜、懐剣を離さない。同じ年のお付きが六人あつたが、それが亦、みな、一緒に自害するといふので、少しも手出しが出来ん。誰が行つて、なんと言つても、聞かれない、どうにも、かうにも仕方がないといふのサ。それぢやア、己が行かうと言った。 その頃、己は名代の荒紙破りの評判で、恐しいものとなつて居たから、どンな事をするかと、みな、心配して居たさうなよ。
次の日、出てゆくと、女中がずつと並んで居て、その中に天璋院は、かくれて、様子を見たものだネ。それから、己は言つてやつた「アナタ方が、自害だなどと仰しやつても、私が飛び込んで行つて、そんな懐剣など引つたくります。造作はございませんよ」と言つたら、お付きが「それは甚だ御過言でせう、死なうと思えば、どうしても死ねます」と言ふから、「さうでンすか、ダガ、それでは甚だお気の毒ですが、私は名を挙げますよ」と言つたら、ナゼかと言ふのさ、「それはアナタ、天璋院が御自害を為されば、私だつて、済みませんから、その傍で腹を切ります、すると、お気の毒ですが、心中とか何とか言われますよ」と言つたら、「御冗談を」なんテ、笑つたよ。それから「明日もいらして下さい、まだ伺ひたいから」と言ふのサ。それから三日かかつて、やうやく納得サ。明治になってから天璋院のお供で、所々へ行つたよ。八百善にも二三度。向島の柳屋へも二度かネ。吉原にも、芸者屋にも行つて、みんな下情を見せたよ。だから、所々に芸者屋だの、色々の家を持つて居たよ。腹心の家がないと、困らあナ。私の姉と言つて、連れて歩いたのだが、女だから、立ち小便も出来ないから、所々に知つて知らぬふりをしてくれる家が無いと困るからノ。そのうち、段々と自分で考へて改革さしたよ。柳屋に行つた時だツけ、風呂に入れたら、浴衣の単衣を出したが、万事心持が違うので、直に又さうしたよ。一体は風呂の湯を別に沸かして、羽二重でこすのだから。それに、着物もべたべたすると言つて、浴衣の方が好いなどと言ふやうになつた。シヤツを見て、あれは何といふものだと聞いて、帰りに二つ三つ買つて帰つたら、直にそれをしたよ。初めは、変だつたが、もう離せないといふやうになつた。ワシの家にも二三度来られたが、蝙蝠傘を杖にして来てネ「どうも、日傘よりも好い」と言った。そンな風に、万事自分で改革をした。後には、自分で縫物もされるしネ、「大分上手になつたから、縫つて上げた」などと言って、私に羽織を一枚下すつたのを持つてるよ。 (「海舟語録・勝海舟」より)。(写真:天璋院・篤姫)。
2011年2月11日金曜日
海舟と天璋院: 八つぁん
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