同人(清次郎)は、かねてよりすぐれた人物だと聞いていたので会うのを楽しみにしていたところ、色々と話してみると「何の思惑のない人(何の考えもない人)」で、国家のために命を捨てることは苦労はないとでもかんがえているようです。今私は、書生が50人くらいいますが、皆何らかの優れたものがあり、共に国家についての議論もできます。
清次郎はただつれてあるくくらいしか使いようがなく、もうすこし立派な人物であったらよかったのですが。又は、何か一芸でもあればよかったのにとおもいます。ふざけた言い方をすると、蔵のニワトリ(役立たずという意味か?)のようなものです。1、2年苦労すればすこしは役に立つようになるかもしれませんが、まあ今のところはどうしようもないですね。今、国から他国に出てきている人は、どんなに阿呆でも、国元にいる並の人々の及ぶところではありません。・・・・・・・・・・
龍馬は親戚である清次郎に期待してたのに、会って話してみて落胆したのでしょうね。ここまで酷評された清次郎がかわいそうな気もしますが、私がこの手紙で面白いと感じたのは引用文の最後の部分です。「国から他国に出てきている人は、どんなに阿呆でも、国元にいる並の人々の及ぶところではありません」
幕末とはいえ、藩を飛び出すことは場合によっては脱藩という重罪に問われます。志士の活躍の舞台だった京都では常に暗殺のリスクが伴いました。多くの行動の制約と危険が伴う中に自ら身を置いた人というのは、安寧な国元にいる人と比べれば、格段にさまざまな経験や知識を得ているので、人物が一回りも二回りも大きくなっていたのでしょう。
2010年9月19日日曜日
行動しない並の人より行動する阿呆 :投資十八番
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿