前にも記事に書いたが司馬遼太郎というひとは外国人から見ると不思議な小説家で、不思議、というか「存在しない」小説家です。
だって、売ってないからな。
英語版は、ということだが。
マンハッタンのロックフェラーセンターにある紀伊國屋書店とかに行くともしかして「空海の風景」くらいが見つかるかも知れないが、他にはないであろう、と思う。
ともかくどこにも売っていない小説家である。
理由はわかりません。
わっしは日本語を身に付けるにあたって「大量に日本語の本を読む」ことを方針にした。
ま、他のこともいろいろやったけどね。
わっしの外国語に対する考えはいつでも同じで「読めれば書けるさ」です。
同様に話せるし聴けるはずである。
「えっ、おれは読めるけど話せねーぞ」ときみは言うであろう。
日本のひとはみな、「わたしは英語は読むのはだいじょうぶなんですが、話すほうはちょっと....」と言うからな。
でも、ウソですよ、そんなの。
読めれば話せるに決まっているではないか。
読めるのに話せない、というのは、ほんとうは「読めていない」のね。
英語をずらずらずらずらと読んで、頭の中で慌てて、片端から和訳しているだけです。
それは「読んだ」とはゆわん。
翻訳代をけちっただけです。
第一、きみの机の上にある辞書、英和辞典なんじゃない?
わっしはある日、ソニーの社長夫人になった娘が至るところでウエイターは怒鳴りつけるわ、いったいあなたはわたしを誰だと思っているの店長に来させない、と叫びたてるわ、
お伴を連れて欧州に出かけて剣突をくらわせて欧州人をボーゼンとさせるわ、という偉業を成し遂げた三省堂本店で、「坂の上の雲」というカッチョイイ題名の本を見つけた。
すげえーむかし、4年か5年前のことです。
一日、という当時の自己新記録というべきスピードで読みました。
読んだあとでひどい頭痛がしたがな。
この本が母国語なみのスピードで読んだ記念すべき第1号の本になった。
いろいろ理由があるであろう。
わっしはその頃正岡子規の本を立て続けに読んでおった。
芬蘭の歴史を調べたついでに興味をもって日本海海戦について調べていました。
幕末の歴史が面白かったので薩摩人の故郷に行ってみんべ、と思ってヘコーキで鹿児島にも行った。
そーゆー当時のうらわかき、独身で、いまよりも2キロ痩せていて(最近ステーキのくいすぎだべ)、ありとあらゆる種類のねーちゃんにモテモテであった頃のわっしにアピールしたのだな。
次の日いちにちお休みしてから、わっしはまたまた三省堂に出張って、今度は司馬遼太郎の本で棚にあるのを全部買った。
送ってもらいました。
わっしは吉田戦車先生のたいへんためになる本を読みながら待っていたが、着いた瞬間から、ずううううっと、ずううううううううううっと司馬遼太郎を読んでおった。
しまいには義理叔父に「ぼくは、やね」とゆって笑われました。
面白かった順に並べて
「坂の上の雲」「尻喰啖え孫市」「竜馬がゆく」「関ヶ原」「峠」っちゅうような感じでしょうか。
このひとは公団アパートのてっぺんのようなところから地上を見てはんねんな、とわっしは考えた。高みだが、(嫌な言葉だが)「庶民的」な高みなのね。
ものすごく非人間的な感じがする「観念のひと」であるのに、そういう自分が嫌いだったようだ。肉体、とかがあんまりないひとです。
友達になると嬉しいが家族、とか、ましてこんなんが父親だったらたまらんな、と思った。
兄貴、でも嫌だのい。
おじさん、なら大歓迎であると思います。
そーゆー感じの元産経新聞記者が書いた「坂の上の雲」は、もう、むやみやたらとオモシロイ小説でした。
いま考えてみると、しかし、出版社が翻訳しなかったのはわからんでもないな。
日本の歴史に興味がなかったら、こんなもん読んでもちょっともおもろないやん。
そこへもってきて「日本の歴史」に興味がある英語国民など、「イタリアの歴史」に興味がある英語人の数の5万分の1とかいう数で、エジプトの歴史の3万分の1、イランの歴史の5000分の1、ベトナムの歴史に興味があるひとのの3分の1くらいだろーからな。売れねーよな、やっぱり。
「坂の上の雲」のショーセツ世界では、因習と固陋の世界から脱したばかりの闊達な若者たちが全身全霊で生きて、その結果として国家を発展させ、やがて西からやってくることになった巨大な「暴力」に打ち勝って自分たちのまだ、か弱い世界を防衛することに成功する。
そこで躍動しているのは手に入れたばかりの合理主義であり、国の守り神としての薩摩人たちの神秘的な戦士ぶりであり、友情と労り、民族の誇りと高い倫理です。
まるで中世の騎士物語のようだ。
わっしはこの司馬遼太郎というひとの壮麗な夢はどこから来たのだろうか、と読後に考えました。
というのは、明治時代というのは彼が描いたような時代ではなかった。
彼自身も知っていたし、担当編集者であった半藤一利も気が付いていた。
まったくの絵空事だ、とゆっているのではない。
ここに書かれてあることは薩摩人の文化に対する異様なほどの美化のほかはほんとうに起こったことです。
でも明治という時代がもっていた暗さ苛酷さ容赦のなさ、というようなものはいっさい省かれている。幕末における勝者であった薩摩人士族の眼にうつった明治、という趣があるかも知れません。
実際、わっしの義理叔父(日本人)は家系的に「薩摩の人」ですが、このひとの家のひとびとに伝わる話はほとんど「坂の上の雲」と同じような明治観をもっているよーだ。
その「御一新」のときの笑い話のおかしさ、へなちょこだと侮っていた幕軍に逆に切り込まれて「でっっかい屁をぶっこきながら」フンドシひとつで必死で逃げたK町の某や
弾丸というものは入射したほうの痕跡が小さく抜けたほうが大きいという単純な事実を知らない母親に尻のでっっかい弾痕を見られて、「わたしはこんな卑怯な子供をうんだおぼえはない。おまえは敵に尻を向けて逃げた上にウソまでついておったのか」とゆわれて、悔し泣きしたやはりK町の甘木さんとか、御一新をはたしてからの成り上がりぶりの笑い話、そーゆーたくさんの「家に伝わる話」を聞いていると「坂の上の雲」にみなぎるのと同じ空気があります。
しかし一方では明治は弱い者を徹底的にいたぶり嗤いものにすることによって倫理が成り立っていた時代で、薩摩人の士族にとってはダイナミズムに溢れた時代であっても、権力コンビの片割れの長州人にとっては出世主義の緊張が支配した時代であり、幕軍方であったたとえば会津人にとっては地獄そのものでもあった。
勝者以外は人間としてあつかわれなかった時代です。
ゲージツ、というようなことでいうと、たとえば
「文学」などというものは気が狂ったか人生を投げた人間がやるものであって、日本のひとはよく漱石や鴎外が文学者として高い地位にあったことをいうが、それは間違っておる。
仔細に見ると、普通人にとっては実は漱石は「帝国大学の学士」なのに小説を書いたひとであり鴎外は最終的には軍医総監に至る選良高級軍人なのにブンガクというものを好きなそーだと面白がられた、というだけのことです。
「文学」は付けたり、というかヘンな趣味のようなものだったようです。
明治、という時代は北村透谷のようなひとですら「出世する」ということが人生における第一の価値であった。
そーゆーことから自由でありえたのは若い女の生活人であった樋口一葉くらいのものだったでしょう。
その勝利者以外には誇りをもつことを許さぬ時代のせいで
透谷は「女学雑誌」のたださえ惨めな原稿料をさらに下げることを仄めかされて縊死しなければならなかった。
藤村の三人の娘は餓死し、幸徳秋水は日本国家にあっては「思想」を認めないというはっきりした国家の意思によって完全なでっちあげの事件の主犯として処刑されます。
いっぽうで、明治時代に日本を訪れた外国人たちが本国で活字にしたものを読むと、東京や横浜の路地裏には昼間から酒瓶を傍らに並べて博打に耽溺する「庶民」の姿が頻繁に登場し、ちょっとでも油断すると荷物は盗まれ、口を開いて言うことはほとんどはウソである、という日本の当時の世相が活写されておる。
いまの日本人がもっている「明治人」とは相容れないひとびとがそこには描かれている。
司馬遼太郎は自分が生きた時代の日本が大嫌いでした。
それは司馬遼太郎自身の手で何度も書かれ「ときには灰皿を投げつけたいほどの気持ちで」というような激しい言葉遣いで当時の(というのは80年代の)日本人の卑しさ、虚言癖、恥知らずぶりを忌んでいる。
どこからどう考えても世界最低の国民だ、とつぶやいたりしていたそーです。
わずかに彼が息をつけたのは、日本がすべてを失って、彼自身は「お寺の縁側で不貞寝」をしていたりしていた40年代から50年代であった。
60年、忍者小説で作家として自立した(いまの「忍者」というものは司馬遼太郎と山田風太郎というふたりの作家の発明品であることはよく知られていると思います)司馬遼太郎は、そのおもいもかけず手にはいった足場を利用して、「こうであってほしかった日本」「自分が、かくあれかしと願っていた日本」を、現実にはそういう道を歩かなかった日本の現実に対するくやしさを原稿用紙に思い切りたたきつけるようにして「坂の上の雲」や「翔ぶが如く」のような小説を書いてゆきます。
そこに描かれたのは歴史上の人物の名前と人格の輪郭を受け継いだ、「こうであれたかもしれない日本人」たちでした。
現実とはほど遠いことは、たとえば明石元次郎の描写を見ると本人も十分すぎるほどよく知っていたのがわかります。
彼は、自分が書いている「明治人」など存在しないことを知っていた。
司馬遼太郎が「坂の上の雲」を書いたのは、1968年から1972年という丁度いまの民主党内閣の閣僚たちの世代が無責任と人生に対する好い加減で不正直な態度を絵に描いたような「学生運動」を行っていた全盛の頃であって、新聞の縮刷や雑誌を動員して当時の世相と照らし合わせると、この小説の発表自体がいかに勇気のいる試みであったかがわかります。実際、司馬遼太郎はこの小説を発表したことによって、小説家としては葬られかけている。
反動紙芝居作者、のように言われたりしています。
「坂の上の雲」を書いた頃の司馬遼太郎が夢にも考えなかったことには、いまでは司馬遼太郎の書いた小説は「歴史の記録」になってしまった。
小説を現実と取り違える、などということは驚くべきことですが、日本ではそれが堂々と既成事実化されてしまった。
へんなことをいうと、わっしには「血液型性格判断」を受け入れるのと同じ知性的欠陥がおおきな役割をはたしたように思えます。
幕末の物語や「坂の上の雲」に描かれた司馬遼太郎の願望のなかだけで造形された若い英雄たちはテレビの「ドキュメンタリー」や「歴史番組」を通じて、すっかり「現実の歴史人物」になってしまった。
司馬遼太郎は、きっと天国で苦笑いしているでしょう。
ひょっとすると温厚な風貌に似ず、激怒しているかもしれません。
しかも、司馬遼太郎が創作した人物を歴史的な事実であって、だから日本人は優秀なのさ、と話たがる日本人は、みな司馬遼太郎が吐き気がするほど嫌いだ、と述べたまさにその傲慢な「ムラ社会人間」たちそのものであるという皮肉な副産物まで生じた。
司馬遼太郎がつくりあげた壮麗な「こうでありえたかもしれない日本」は、彼の小説家としてのすぐれた才能ゆえにかえって現実の歴史に対する巨大な消しゴムとなって、実際の「明治時代」を痕跡ないまでに消してしまった感があります。
日本が立ち直るきっかけがおおきくうしなわれる要因になりつつあるよーだ。
中村草田男は1936年に「降る雪や 明治は遠く なりにけり 」という有名な俳句をつくりましたが、中村草田男ならばまだおぼえていた「明治時代」は、明治というものを「希望の原型」であったと信じていたひとりの作家によってかき消されてしまったのだ、と言えるのかもしれません。
実に簡潔、面白いブログだ。痛快である。
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