作家の久世光彦氏の『ニホンゴキトク』(講談社 1996)に、「ファックスを流す」というのはどうしてだろう、という話が出てきます(p.148)。新しい機械なのに、ちゃんとそれ用の動詞が用意されているということの指摘です。
「そう言えば、白い紙がサラサラ出てくるところは、流しそうめんににていないくもない」と、久世氏なりの考えが開陳されています。なるほど、よく分かる説です。
それから話は、ではどうして「テレビをつける」というのか、「電話を入れる」というのか、……と続いていきます。
「電話を入れる」、これも普通に耳にします。今では文学作品でも使われていて、立ち上った東は中華料理屋に電話を入れた。(小林信彦『怪物がめざめる夜』新潮社 1993 p.59)
のように出てきます。もっとも、『新明解国語辞典』初版(1972年刊)にも載っていて、僕の感覚からすると、案外古いという感じです。でも、さかのぼるとしても、せいぜい1960年代止まりではないかと思いますが、いかが?
「電話を入れる」と「電話をかける」との違いは、前のは電話で相手に話をすることまでを含みますが、後のは相手が出ない場合もあるというところでしょう。この使い分けは便利かもしれない。
また、久世氏は、「電話をかける」の「かける」はどういう漢字を書くのかと疑問を発しています。「《掛ける》のか、《懸ける》のか、《架ける》のか、自信をもっては答えられまい。誰かが最初に、《かける》と使っただけの話なのだろう」。
僕も「自信をもって」は答えられないのですが、また、どれでもいいとも思うのですが、昔から「架電(かでん)」ということばは使われていたようです。電話線を架設することではなく、「電話を架ける」です。
これは裁判の判決文に用いられてきました。1991.06.18の「朝日新聞」によると、裁判官有志が判決文をやさしくしようという「書き方案」を公表した。その際、この「架電する」は「電話をかける」に改めようと発案されました。ちなみに、ほかには「虚構の事実を申し向ける」を「うそをつく」に、「拐帯(かいたい)する」を「持ち逃げする」に変えようという案が示されました。
もっとも、一般的には、もし漢字で書くとすれば「掛ける」が多数派のようです。「其処へ電話を掛ければ」(夏目漱石「行人」)などのように。話はちょっと違いますが、「図面に落とす」などという言い方もありますね。
〔捜査員は施設の〕配管の構造を図面に落としたりして、(オウム真理教施設捜索のニュース=佐藤淳アナウンサー NHKニュース 1995.04.23 16:00)
この用法は、ちょっと手近な辞書を見たところでは載っていないようです。
昔、『視線を投げる』なんって表現を川端康成かなんかの小説文中で見つけたとき..思わずハッとした自分を思い出しました。
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