孝明天皇の暗殺の状況については、何度か既に投稿しておりますが、私が調べたところによりますと、天然痘が快方に向かってようやく「夜這い」が出来るようになった、慶応2年12月25日に当時愛人であった、岩倉とも視の妹の堀川紀子邸に夜這いに出かけて来たところを、トイレで貴人の用便を処理していた穢た・非人を買収して代わりに槍か刀で武装して便所の真下で待ち構えていた下忍の暗殺部隊の伊藤博文が、用をたしに来た孝明天皇を下から突き上げて、刺し殺したのが真相である。その直後に救急で呼ばれた、御殿医が日記に記録してあり、それは有名な歴史作家の南原幹雄の確か曽祖父にあたる人だったと記録されている。その下手人の伊藤博文は、グラバーの援助と指示で長州藩を代表して幕末のまだ鎖国時代に、ロンドンに井上馨らとともに5人で留学していた英国フリーメーソンの手先で、英国かsら軍艦やスペンサー銃やゲベール銃などを坂本龍馬を媒介にして薩摩藩から買うなどの桂小五郎や高杉晋作の使い走りをしていたが、慶応2年12月25日には、英国軍艦に乗って大阪湾から上陸して孝明天皇の暗殺の為に送り込まれた刺客であった。下から凶器で突き上げられて血まみの天皇の状態では手の施しようもなく、死んだと御殿医の日記には記されていた。かくして、自ら暗殺した天皇とその子の睦仁天皇の暗殺を誤魔化す為に、自分の力士隊という第二奇兵隊隊士の部下の大室寅之祐少年を鳥羽伏見の戦いで勝利を治めた後に、宮中に乗り込んでいって、既に半年ほど前に暗殺していた睦仁天皇にすり代えて、この自分の力士隊という第二奇兵隊隊士の部下の大室寅之祐少年を睦仁天皇だということにして、明治天皇に擁立した訳である。だから、明治政府を伊藤博文が仕切ったのは当然であり、自分の2人の天皇の暗殺の過去を糾弾されないように、明治憲法を制定して、その中に「万世一系の天皇制」や「神聖にして犯すべからず」といった自分の天皇殺しの極悪犯罪の追及からまぬがれ、その為に「不敬罪」なる犯罪をでっち上げたのも、全て「犯罪追及からまぬがれる為であった。これは、現在、婦女暴行魔・殺人罪を犯した小泉という在日朝鮮人2世の男が、自己の過去の犯罪を覆い隠し追及の手からまぬがれる為に、「個人情報保護法」を通して追及からまぬがれようとしている構図と全く同じである。
だから、明治以降4代の今の天皇制には血統という意味では、天皇の正統性など全くなく、後南朝を語っているがそれも嘘の、ただ天皇を詐称した伊藤博文のでっち上げた「饅頭屋の大室寅之祐」の末裔だというのに過ぎない。ここに、フリーメーソンが天皇制を廃止に追い込めば、その正統性が問われる、フリーメーソン天皇の明治天皇の弱みがあるのである。だから、光格天皇と同様に旧閑院宮の末裔当たりの男系男子の皇孫を皇太子の養子に取り、明治天皇以前の体制に戻して、京都に行幸で戻り遷都して古き日本の皇統に戻すべきなのである。
2009年11月28日土曜日
Re: 孝明天皇暗殺は慶応2年12月25日(但し旧暦)の事でした。 救国の草莽の志士
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