よく作られていると思う。良心的な取り組みだとも思う。「やましき沈黙」というタイトルは、非常によく海軍軍令部の状況を表していると感じる。でも、やはりもの足りない。 多分、二つのことが抜けているからだと思う。ひとつは、特攻作戦をして、どこまで持つのか、または、どんな終局を予測していたのかということ。もうひとつは、そもそも、戦争は勝てばいいのかということだ。1.太平洋戦争は、そもそも開戦前からアメリカと戦争をしたら勝てないと分かっている人たちがかなりいる状態で進められた戦争だ。しかし、開戦そのものは一部の人間の思い上がり、過信によって行われたとすることもできると思う。しかし、特攻攻撃はそれとはまったく異なる。開戦時、既に日本国内では物資不足で、民間から調理器具などの供出を募っていた。だから、多分、開戦後一年で既にこれはまずいと分かっていたはずなのだ。1941年12月、真珠湾攻撃による太平洋戦争開始、そして、翌1942年6月のミッドウェー海戦によってほぼ誰が見ても日本の負けは決定していた。そして、多分、その頃から海軍によって特攻兵器の開発が始まったはずだ。回天などの開発構想がその頃に持ち上がったとされる記事もある。しかし、人間を生還の可能性のない兵器として用いるという非人間的な兵器という以外に、そもそも、戦争に勝てる、または、そういう兵器を使うことによって、どう戦局を打開するかという展望があったのか、それが大いに疑問なのだ。 当時の日本人のほとんどが内向きの論理に縛られていたのではないかと思う。勝つと思ってはじめた戦争。景気のいいことを言ってはじめた戦争。多くの市民を既に犠牲にしてしまった戦争。それを今更、負けるとは言えない。そのため、単に、何の展望もなく、ただただ時間稼ぎ、破局の先延ばしのために特攻攻撃が考えられたのではないだろうか? 多分、そこにあるのは、単に、自分を優位に置きたいという勝気体質でしかないのではないだろうか?自分が信任を得、自分が責任をおっている社会全体のことなどどうでもよくて、単に自分を優位な状態に置いておきたいがため、どんどんとうそをつきとおし、普通の市民に犠牲を強い、社会そのものを破局へ向かわせて行った。それが真相ではないだろうか?そして、そういった判断を可能にさせたのは情報の統制だ。2.戦争は勝てばいいのだろうか?ゲームは勝つことが目的だ。だから、ゲームについては勝てばいいのだと言えるような気がする。しかし、ゲームでルール違反をして勝っても、それは勝ちと認められはしないだろう。本来、殺し合いの戦争は、そういったルール自体をすべて無視することになりがちだ。だから、どんなことをしても勝てばいいのだろうか? 本来、殺し合いということは人間にとっていいことなのだろうか?他人を殺すということは自分が殺されるということでもある。それでいいのだろうか?絶対に勝つ、常に自分が勝つという状況になるのだろうか? 違うと思う。人は年を取り、やがては自ら死んでいくものだ。絶対の強さなどというものは存在しない。常に勝ち続けるということもありえない。少なくとも、特定の人や特定の集団、または特定の国家が常に強者であり続け、勝ち続けるとはとても思えない。なぜなら、そこには他者がいるからだ。誰かが勝つためには誰かが負けるのであり、勝った側は何らかの意味で奢り高ぶるし、負けた側は一生懸命それを取り返そうとするだろう。だから、もし、徹底的に勝とうとしたなら、相手を殲滅するしかない。しかし、そうしたら、次に負けてくれる相手がいなくなるだけだ。 自分も相手も同じ人間。一種の平等性のようなものを考えないと社会は存在し得ない。そう思う。そして、このことに配慮が決定的に欠けていたのが明治期から太平洋戦争期の日本の支配層ではないだろうか。 多分、今のアメリカの支配層も、同じような状況だと思う。一人一人の生の有限性、そして、人間という種、または、生命一般というもの自体の平等性を、多分、忘れてしまっているか故意に無視してしまっているのだ。 多分、上の二つの問題を日本社会は、今も抱えている。そのもっとも大きな点は原発問題だ。地震大国である日本に取り、原発は安全であるかどうか、将来、大きな震災を引き起こさないかという点と、地震大国である日本は同時に地熱大国であり、原発は日本にとり有利なエネルギー源であるかどうかという点だ。
よく作られていると思う。良心的な取り組みだとも思う。「やましき沈黙」というタイトルは、非常によく海軍軍令部の状況を表していると感じる。でも、やはりもの足りない。
多分、二つのことが抜けているからだと思う。ひとつは、特攻作戦をして、どこまで持つのか、または、どんな終局を予測していたのかということ。もうひとつは、そもそも、戦争は勝てばいいのかということだ。
1.太平洋戦争は、そもそも開戦前からアメリカと戦争をしたら勝てないと分かっている人たちがかなりいる状態で進められた戦争だ。しかし、開戦そのものは一部の人間の思い上がり、過信によって行われたとすることもできると思う。しかし、特攻攻撃はそれとはまったく異なる。開戦時、既に日本国内では物資不足で、民間から調理器具などの供出を募っていた。だから、多分、開戦後一年で既にこれはまずいと分かっていたはずなのだ。1941年12月、真珠湾攻撃による太平洋戦争開始、そして、翌1942年6月のミッドウェー海戦によってほぼ誰が見ても日本の負けは決定していた。そして、多分、その頃から海軍によって特攻兵器の開発が始まったはずだ。回天などの開発構想がその頃に持ち上がったとされる記事もある。しかし、人間を生還の可能性のない兵器として用いるという非人間的な兵器という以外に、そもそも、戦争に勝てる、または、そういう兵器を使うことによって、どう戦局を打開するかという展望があったのか、それが大いに疑問なのだ。 当時の日本人のほとんどが内向きの論理に縛られていたのではないかと思う。勝つと思ってはじめた戦争。景気のいいことを言ってはじめた戦争。多くの市民を既に犠牲にしてしまった戦争。それを今更、負けるとは言えない。そのため、単に、何の展望もなく、ただただ時間稼ぎ、破局の先延ばしのために特攻攻撃が考えられたのではないだろうか? 多分、そこにあるのは、単に、自分を優位に置きたいという勝気体質でしかないのではないだろうか?自分が信任を得、自分が責任をおっている社会全体のことなどどうでもよくて、単に自分を優位な状態に置いておきたいがため、どんどんとうそをつきとおし、普通の市民に犠牲を強い、社会そのものを破局へ向かわせて行った。それが真相ではないだろうか?そして、そういった判断を可能にさせたのは情報の統制だ。
2.戦争は勝てばいいのだろうか?ゲームは勝つことが目的だ。だから、ゲームについては勝てばいいのだと言えるような気がする。しかし、ゲームでルール違反をして勝っても、それは勝ちと認められはしないだろう。本来、殺し合いの戦争は、そういったルール自体をすべて無視することになりがちだ。だから、どんなことをしても勝てばいいのだろうか? 本来、殺し合いということは人間にとっていいことなのだろうか?他人を殺すということは自分が殺されるということでもある。それでいいのだろうか?絶対に勝つ、常に自分が勝つという状況になるのだろうか? 違うと思う。人は年を取り、やがては自ら死んでいくものだ。絶対の強さなどというものは存在しない。常に勝ち続けるということもありえない。少なくとも、特定の人や特定の集団、または特定の国家が常に強者であり続け、勝ち続けるとはとても思えない。なぜなら、そこには他者がいるからだ。誰かが勝つためには誰かが負けるのであり、勝った側は何らかの意味で奢り高ぶるし、負けた側は一生懸命それを取り返そうとするだろう。だから、もし、徹底的に勝とうとしたなら、相手を殲滅するしかない。しかし、そうしたら、次に負けてくれる相手がいなくなるだけだ。 自分も相手も同じ人間。一種の平等性のようなものを考えないと社会は存在し得ない。そう思う。そして、このことに配慮が決定的に欠けていたのが明治期から太平洋戦争期の日本の支配層ではないだろうか。 多分、今のアメリカの支配層も、同じような状況だと思う。一人一人の生の有限性、そして、人間という種、または、生命一般というもの自体の平等性を、多分、忘れてしまっているか故意に無視してしまっているのだ。
多分、上の二つの問題を日本社会は、今も抱えている。そのもっとも大きな点は原発問題だ。地震大国である日本に取り、原発は安全であるかどうか、将来、大きな震災を引き起こさないかという点と、地震大国である日本は同時に地熱大国であり、原発は日本にとり有利なエネルギー源であるかどうかという点だ。
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