主語と述語の問題は、歴史と深く結びついている。西田幾多郎は日本における「主体」という考え方がいつから発生しただろうかと考え、「日本語」という言語における主体と客体、すなわち主語(Subject=臣下)と述語(Object)の確立の歴史から、日本における近代的自我の芽生えを研究したが、これは西田によるデカルト研究の賜物と言えるだろう。近代的自我の確立は、コギトという、考える自己に対する疑うことの不可能性、という、ローマ・カトリシズムの三位一体というフィクションの上に、さらなる捏造(神に仕える人間=臣下Object=主体)として生み出されたものといえる。近代の最大の矛盾の一つが、この自己確定の疑いのなさ、にあると思う。 このフィクションのフィクション、という事態が近代の素地となっている訳だが、そのフィクションのフィクションをフィクションとして取り入れることに失敗してしまったのが、現在の日本であり、それが「主語が複数になると述語は暴走する」という事態を生み出している様な気がしてならない。主語の確立の為には、フィクションとしてでも、神の存在が必要であった。しかし、その神そのものが不必用になった実存以降において、それがどういう意味を持つのであろう。 しかし、主体が成立しにくい、という点には、私は美徳も多いと考える。なぜなら、自己を確定する、というのはそんな簡単なことではないからだ。明治期の先人文学者たちは、恋愛における主体・客体の考え方、そして表現の仕方に苦悩した。当時の日本人は、欧米人の様にストレートな言語表現をしなかったからである。 二葉亭四迷は、トゥルゲーネフの小説「アーシャ」に出てくる女性がI love youと言われ、I love youと返答する際の言葉を、「愛している」ではなく、さんざん悩んだあげく、「わたし、死んでもいいわ」という言葉に訳したそうだ。つまり、この中の「死んでもいいわ」という言葉の中には、聞き手に対するかけがえのなさ(=愛)、そして言語表現の中に「いいわ」という女性的言い回しを残している。(I love youではそれはできない) 夏目漱石先生が英語教師をしてた時、生徒がI love youという英語を「あなたを愛しています」と訳した所、漱石は、「日本人が『愛しています』だなんて言うものか。『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ。 それで日本人は分かるものだ」 と言ったそうだ。 主体と客体の問題が曖昧となったまま、述語だけが暴走する現代の日本。現代の日本人は、I love youに一体どんな訳を考えつくのだろう。 -->
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