# つまり、「ノンセクシャル」というものがアメリカでは非常に立場が弱く、セクシャルな表現物について発言する際には「あなたは何セクシャルなんですか? 立場を明らかにしてから物を言いなさい。 立場を明らかにせずにセクシュアリティについてコメントするのは卑怯だ!」と詰問される雰囲気がある。
# それに引き換え、日本では「非モテ男性(男女交際に対して消極的な男性)」も、また「社会にレイプ物のゲームがあること自体が不快だと言う女性」もそれなりの立場を持ちえる。アメリカで女性に興味がないと言えばゲイだと思われるだろうし。女性が怖いと言えば精神科を紹介されるだろう。ノンセクシャルとか、性恐怖に対するインプリシットな共感は日本はアメリカに比べて高いと思う。ちなみにアメリカでは性恐怖は精神科での治療の対象だ。
# 「全ての人間はその人固有の性的嗜好にコンシャスになりなさい! そしてそのセクシュアリティに基づき自己実現しなさい!」というのがこの国のイデオロギーであるように感じることがある。極論すれば、選択の自由と自己決定を《強制する》というパラドックスにアメリカ社会は陥っているようにも見える。「全てのセクシュアリティには、他人を害さない限りでの最大の自由が与えられなくてはならない」という基本原則があるので、その基本原則を揺るがすノンセクシャルや性恐怖症は治療の対象とされ、「彼/彼女の本当のセクシュアリティを自己発見しなくてはならない」ものとされる。
# だから、結論めいたことを言ってしまうと、日本で「エロゲーが社会に存在すること自体が不快だ」という女性の立場が(感情論として)認められることと、日本が(私の知る限りでは)他国と比べて非モテに優しい国であることとは、同じコインの表裏のように思う。アメリカ流の自己決定論とゾーニングでゴリ押しすれば、消しなしや残虐もののエロゲーだって(ゾーンの中において)堂々と出せるようになるだろうけれど、そのときにはアニメファンやエロゲーファンの数%を占めるであろう「非モテ男性(男女交際に対して消極的な男性)」もまた「存在しないもの」とされるだろうと思う。このアメリカにおいてそうであるように。そしてそのような社会は、他方においては様々な局面において自己決定を強制される息苦しさを伴うものでもあると思う。
# そして、自己決定論とゾーニングでゴリ押しした結果出来上がる社会では、表現は平板なものになるだろうとも思う。というのも、人々はあらかじめ自分が欲しいものを知っており、作品を提供する側もその求められているものを提供するだけだからだ。欲しいと言われなかったものを与えてしまい、しかしそれが新たな作品受容の回路を開く、なんてことは起こらなくなってしまう。ゾーニングされていない中での、喩えて言うなら隠れキリシタンのマリア観音像的な虚実皮膜を突くような作品は、ゾーニングされた社会では出てきにくいだろうと思う。”
2009年5月28日木曜日
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