2009年5月28日木曜日

追悼・栗本薫の馬鹿が死んだ

胸くそわりぃ。
 栗本薫がついに死にくさりやがったってんで、追悼がわりに生前に絶賛していたコンビーブごはん、作ったんだが、胸焼けするくそまずさ。最悪だ。
 米三合にコンビーフ三缶、バター、コンソメ、塩コショウで炊き込むって、馬鹿じゃなかろうか。三缶きちんと入れたのかって、入れるわけねーだろ。一缶入れた段階で、釜の中は阿鼻叫喚、見た目ほとんどゲロ。ふざけんなっての、俺を殺す気か。
 色々と見なかったことにして炊き込んでみたが、台所に立ち込めるこのいやな脂の匂い。仕上がり釜を見て笑ったね。なんだよ、これ。全てが赤黒いでやんの。
 飯は脂を吸ってくっさいは、残った赤肉はパッサパサで見た目は糸ミミズのよう、最悪。
 しかもこれにシソの千切りと刻み葱をちらしてって、バター・コンビーフ・コンソメってここまで洋なのに、なんで最後に和なんだよ、いい加減にしろよ。実際、食い合わせ、悪りぃじゃねーかっ。どういうつもりだよ。
 ただひたすらアブラなだけ。こんな少ない材料なのに、それぞれの素材が殺しあって大殺戮じゃねーかよ。これでコンビーフの量を三倍って、それ飯かよ。産廃作ってんじゃねーんだぞ、馬鹿が。
 これが美味いって、およそ味覚センスはサイテー最悪。

 馬鹿や偽善者がつまんねぇ美化する前に、こんな食い物を美味いとほざくくそ馬鹿について俺は云いたい。この馬鹿はこのくそまずいアブラめしと同じようにサイテーだったってことをね。
 てめぇのことしか考えられねえ、被害者意識と選民思想の塊で、いつだって自分自分、自分ばかり、そのくせなにも自分で動こうとしねぇ、まっとうな、他人様のためになることなんてなにひとつできやしなかった、そこにある誰かを抱きしめることすらできなかった、そんなハンパでビビリのクズ野郎だったってことだ。
 他人の感情を理解することもできねぇし、論理的客観的に筋道立てて考えることもできねぇ、なにかにスペシャルな知識もねぇし、豊富な社会経験もねぇ、汗水たらして働くことも、まわりと協調して物事をなすこともできねぇ、ひとつの物事にこだわりつづける根性もねぇ、チンカスみてぇな言い訳と愚にもつかねぇドリームしか手札にねぇ、くそ野郎だってことだ。

 この馬鹿がひとつだけ続けたこと。それは、ただ家に引きこもり、本を読みつづけたってこと。読んで読んで読んで、そしてパクった。
 この馬鹿は、他人様の作品をパクって、てめぇの妄想とご都合主義とを混ぜ合わせることで作家になりやがった。
 最初にこいつが評論家・インタビュアー・エッセイストとして世に出たってことは、そういうこと。他の作品の萌えを語り、その萌えを牽強付会して自らを語り、自らの創作とする。そういうコバンザメみたいな奴なんだよ、元々は。

 この馬鹿をきっかけに、たくさんの、現実世界ではなんもできねぇ一山いくらのしょぼくれたオタクがクリエイター面するようになりやがったが、こいつは他の馬鹿よりひとまわり大きな馬鹿でいやがった。人気作家にあぐらをかきやがり、いつしかてめぇがパクリ作家だってことすら、すっかり忘れやがった。本を読みつづけることを止め、他者の創作物を愛することをやめ、そしてこのくそまずいアブラ飯みてぇな産廃ぎりぎりの妄想だけが残った。

 ひとつ、はっきり断言出来ることがある。
 本当に、心の底から栗本薫を中島梓を愛していた奴は、誰も彼女の死を惜しんではいない、ってことだ。
 作家ではない彼女、今岡純代を惜しむ人はいるだろうね、けれど、作家である彼女は違う。あの馬鹿は、とっくに死にやがってたんだ、もう十年以上も前に。
 この10年以上の、あの神楽坂倶楽部なんていうヘドロみてぇなくっせぇサイトで、ゲロみてぇな文を垂れ流していた栗本薫は、栗本薫のゾンビってところ。ゾンビが動かなくなったって、誰も惜しまないだろ、そういうことだ。
 もう、とっくにどっか遠くにいっちまったんだよ、栗本薫は。

 まるで彼女を愛しているように聞こえるかい?
 ああ、そうさ。愛しているさ。今でも。
 でもその場所は遠すぎてどこにあるのか、よくわからないんだ。

 みんなてめぇがしょぼくれたオタクでしかないことをよく知っていたから、だから、しょぼくたオタクでしかないあの馬鹿が好きだった。
 みんな何者でもなかった。ただ自意識が強いだけの、平凡な、どこにでもいる、イケてないオタクでしかなかった。だからあの馬鹿を愛したんだ。
 もしかしたら、ああなれるかもしれない。オタクのレベルの低い妄想でしかないはずのファンタジー(笑)やら、やおい(笑)やらをありえないほど読ませる作品にしてしまうあの馬鹿に、自らの理想を見たんだ。
 けれど時は過ぎ去る。それぞれが大人になり、自分の居場所を作り、愛すべきものを見つける。そして自らの「若き頃」が遠くに過ぎ去ったことにある時気づく。
 あの馬鹿の繰り言が、愚かなないものねだりであることにも、狭量な偏見であることにも、気づいた。なにも知らないわからない、ただ愛してもらうことを求めつづける子供のわがままであることにも気づいた。
 そうしてみんな、昔はまるで自分の分身のようにすら感じていた彼女が、だんだんと大切でなくなっていったんだ。
 こちらが忘れれば忘れるほどに、あの馬鹿はもっと愚かになっていったけど、それはヒモみてぇな旦那のせいだとか、ホスト遊びみてぇな演劇ごっこがいけないとか、いろいろ理由は探せっけど、ま、そんなことは意味がねぇかな。だってあの馬鹿、いつまでも子供のないものねだりを続ける癖して、感受性だけはすっかりすりきれて棒切れみたいになりやがって、ただの使えねー愚痴おばさんになっちまったんだもの。

 つまりおれが言いたいのは、すべてが最低だってことさ。
 なにが最低だって、「栗本薫」でGoogleで検索をかけると俺の書いた「苦い追想」が六番目にあがるってこと。個人サイトではトップってこと。
 つまり、あのくそまだるく眠い俺の文章がネット上の世間様の認める有益なテキストだってことさ。
 もうどうでもいいってことか?昔、あんな輝いていたあの馬鹿を、今愛している奴はいないのか? 本気で、全力で、熱くあの馬鹿を語る奴はいないのか? もうどこにも?
 ふざけんな。最後の栗本薫はクズでダメで最低のくそ女だが、あの頃の薫は、最高だったはずだろ?
 みんな覚えているはずだろ?忘れちゃない筈だろ?消えない傷のように、今でも心に深く刻印されているはずだろ?
 昔のいい思い出ね、なんて、終わったことにして、本当に終わったことか?
 あの愛を憧憬を信奉を夢を、すべて死という形で贖って、テキトーに奇麗事にして、腐りきって最後にはゾンビ化したあの馬鹿をなかったことにしやがるのなら、俺は絶対ゆるさねぇ。

 ああ、胸くそわりぃ。最低の気分だ。

Posted via web from realtime24's posterous

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