最近、個人的に、グッときた言葉。
私は「メッセージ」が好きじゃありません。言葉が外に向かっていて、「自分自身」に向けられていないからです。
(谷川俊太郎)
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特に、「この手の言葉」は、「教育の業界」に多いように思うのは気のせいでしょうか。敢えて自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますけれども、「外に向けた言葉」が、決して、「内側」、つまりは自分には返らないことが多い。
自分とは切り離された「外側」に向けた「メッセージ」や「提言」は溢れている。しかし、その「メッセージ」や「提言」は、決して自己には返らない。
くどいようですが、自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますが、自己のあり方を内省し、自己を問い直すことの機運に欠けている傾向があるように思うのは、僕だけでしょうか。前にも述べたかもしれませんが、「教育の言語」「学びの言語」「成長の言語」は、それを発するものが意図しようと、しまいと、「再帰性」をもっています。
外に向けられた言語は、あたかも、ブーメランのように、自分にかえってくるのです。あなたは、大人に学べという
あなたは、大人に成長せよという
あなたは、大人に変容せよという
あなたは、大人に対話せよ、というで、そういう「あなた」はどうなのだ?
あなた自身は、学んでいるのか?
あなた自身は、成長しようとしているのか?
あなた自身は、変わろうとしているのか?
そして、あなたは対話の中にいるのか?自分の外側という名の「中空」に放たれたメッセージが、行き場を失い、漂い、淀み、腐臭を発することのないように。
「教育」や「学び」について語ることとは、自分を問い直すことなのではないか、と思うのです。投稿者 jun : 2009年05月26日 09:35
2009年5月28日木曜日
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 外側に向けられたメッセージ
via nakahara-lab.net
clip - どうしても、自分の知識と経験というのは、絶対化しやすいので、「自分はこれだけの経験をしてきているんだか...
“どうしても、自分の知識と経験というのは、絶対化しやすいので、「自分はこれだけの経験をしてきているんだから、その経験をしてきていないおまえにはわからん」という態度になってしまって。
特に経験というのはやっかいですね。その人にとっては、まちがいなく事実であり、絶対的な真実と思いこみやすいですから。でも、自分の経験だけを意見の根拠にするのは危ないのです。
その経験がすべてにあてはまるはずはないし、他人には、その人の経験を評価しようもない。だから「自分の経験では・・・」と得々と語る人はいますけれど、そういう人とでは議論が成り立たないのです。
via iro.tumblr.com
clip - 「身を削る」のだ、書くことは。 書くものが見つからないときの 自分の存在意義までが、...
“「身を削る」のだ、書くことは。
書くものが見つからないときの
自分の存在意義までが、
しおしおとしぼんでいくような無意味感。書こうとするものがはるか遠くにあり、
そこまでいこうと、必死で坂をのぼるも、
技術も知力も体力も及ばないんだと思うときの
絶望感。思うものが書けなかったときの無能感。
それを人に読まれるときの、
「ちがう、ちがう、ちがうんだ」と言いたいような
恥ずかしさ。書きあがった後の、
目と肩と背中の、じんじん熱く痛み、
体の中がスカスカになったような憔悴感。限界まで努力して、それでも理解されない痛み。
書くことは、決して、人と一緒にできない。
書くことは孤独だ。
via iro.tumblr.com
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