2012年9月3日月曜日

書物における明治二十年問題/橋口侯之介

「その頃の古本屋は只今のデパート式でなく旧式の呉服屋などのやうな座売式でした。客が店に腰かけますと座布団を出す、火鉢を出す、茶を出す、といふ風で、無論店にも本は並べてありますが、多くは土蔵にしまつてあるのです。老子の良買は深く蔵して空しきが如し、といふ風で仲々趣のあるものでした。何々の本を持つてこい、と主人なり番頭さんに云はれますと、ハイといつて昼でもうす暗い土蔵の中に入つて本を探すのです。沢山の本の中より註文の本を探し出すのは容易なことでないのです。殊に原書です。それを探し出せるやうになるとモウ一人前になつたのも同じです。私などは蔵の中で幾度泣いたか知れません」

「昔は素人の本屋はなく大ていは小僧上りでした。小僧さんは皆勉強をしたものです。和本屋の小僧さんは目録を作り店をしまつて寝るときになつて豆ランプの灯影をたよりに一生懸命研究したものです。槍屋などは原書を主として売買してゐましたので、今迄横文字などは一字もみたこともない私共でもそれをおぼえなければならない苦心は大ていではありません。番頭さんに訊いても教へてくれません。仕方なく字引と首つ引で夜の明けるのを知らないで勉強したのも度々でした」

「明治二十年頃の古本屋は原書屋と和本屋の対立の観がありましたがあらゆる旧套を脱して新しき文明を吸収するに汲々たる当時の国情は原書屋の威勢を高め実に隆々たるものでした」

「その当時の和本屋でおもに売買されたものは漢籍ならば十八史略とか外史とか只今ならば殆どツブシのやうなものが教科書として使用してゐた為め威張つてゐたものです。日本外史などは定価二円廿五銭のものが一円七八十銭位でした。国語も万葉とか玉かつまとか、神道の教科書に使ふものが命脈を保つてゐる位で、その他の和本はツブシ同様の値段でした」

「その頃の和本屋の一流は松山堂でした。この店は和本の硬派もの即ち漢籍国書を主とし、原書なども取扱つてゐたと思ひます。それから浅倉屋、本郷の大島屋伝右衛門、須富(四代目で日本橋須原屋の番頭)、嵩山堂―小林新兵衛、日蔭町の村幸、この店は私と同じ並びで、九尺間口の小さいものでした。主として軟派ものや、俳書、蒟蒻(こんにゃく)本金平(きんぴら) 本黄表紙、錦絵等を置き、只今ならば珍本に類するものを取扱つてゐたと思ひます。とにかく当時は欧化万能、今日軟派の珍本が何千円もするのに比較しまして実に微々として振るはなかつたのは実に隔世の感があります」

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